海の民・山の民としての安藤氏

302 ~ 303 / 553ページ
この安藤氏といえば、従来は津軽を中心に、東は下北、西は男鹿半島、北は渡島あたりに活動する一族というイメージが強かった。しかし近年の研究によって、山の民・海の民としての安藤氏の、広範囲にわたる活躍の場が明らかにされている。
 安藤一族の海の民としての広がりは、仙台湾や松島湾周辺の史料にその姿が記録されていることからも知られる。中世末期の史料ではあるが、安藤氏が、海の民の守護神たるところの陸奥国一の宮、塩竃(しおがま)神社(写真130)の社人となっていたこと、その塩竃神社の神領が安藤氏と関係の深い外浜に存在していたことなども明らかになってきており、陸奥国を代表する海の民としての安藤氏の存在が、この北の世界で大きな意味を持っていたことはまちがいあるまい(史料五八九ほか)。

写真130 塩竃神社(宮城県塩竈市)

 しかしそれにもまして注目されるのは、山の民としての安藤氏の存在である。安藤氏が山の民であったことは、のちに触れる鎌倉末期の「安藤の乱」(津軽大乱)鎮圧のことを「津軽山賊誅伐事」と記する文書(史料六二五)の存在によってよく知られているが、『吾妻鏡』文治五年八月条(史料五三二)にみえる、阿津賀志山合戦に際して活躍した「山案内者」安藤次や三沢安藤四郎についても、やはり津軽安藤氏一族に属するものと考えられる。
 安藤氏の始祖伝承中にみえる安日はまた、山の民マタギの祖先でもある(史料一一五七)。