もっとも苗字なら「安藤三沢」と名乗るのが通例であり、また他に苗字史料がないことから、安藤氏にはやはり苗字がないというその独自性が際立ってくる。安藤氏の族的結合は、他の豪族とは異なり、かなり特殊なものであったのかもしれない。
あるいはこのことも蝦夷に連なる系譜であることとかかわろうか。また非農業生産をその基盤とし、商業・交通に深い関わりを持つ安藤氏には、他の在地領主とは異なって、そもそも苗字の地とかかわる在地性そのものが希薄なのであろう。
族的結合の特殊性について考える上で、もう一つ、「きぬ女類族交名」(新渡戸文書・写真131)が、極めて難解ではあるが、貴重な史料である。
写真131 きぬ女類族交名
これは八戸是川の安藤三郎の妻である「きぬをんな」を基準とした、当時としてはあまり例をみない女系による一族の系図であるが、糠部の安藤一族が、なお女系が人々を結びつける重要な絆(きずな)であった社会のなかで生きていたことを示すものかもしれない。
しかしもちろん、安藤氏は一方で確実に男系的な氏族制的結合をも有しており、これらがどのように関係するのかはもう一つ明確ではない。松島の雄島(おしま)の貞和五年(一三四九)銘の板碑にみえる「安藤太郎妻」を含む多数の結衆は、やはり女系のつながりを持つのであろうか。
こうした海の民・山の民としての在り方こそ、津軽安藤氏の元の姿であった。津軽においては安藤氏は、藤崎や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。こうした非農業民の代表者としての活躍を買われて鎌倉殿や北条氏に採用され、地頭代・蝦夷管領としての領主的な活躍への道が開かれたのである。