顕家の恩賞が南部氏に厚く、安藤氏に薄かった節(ふし)があり、そうした不満もあったのか、あるいは建武二年から顕著になる、南部師行による津軽支配の進展が関係するのか、同年十月の尊氏離反の後、安藤氏嫡流は尊氏方につくこととなった。
この年三月には、顕家が津軽山辺郡政所に対して、「津軽中のことについて尋沙汰があるので、南部師行を下向させるから、その催促に応じて忠節を尽くすように」との命令を出している(史料六六三)。南部氏は顕家の権威を背景に、津軽地方にも着々とその影響力を浸透させていった。九月には、師行による右の催促にしたがわない武士の討伐があったらしく、「今度山辺合戦」においても大将としての功績は抜群であるとされ、「返々神妙」と師行の軍忠が讃えられている(史料六七〇)。
おそらく安藤氏はこうした事態の推移に反発したのであろうが、これは南部氏が陸奥国司の配慮によって津軽に大きな勢力を持ったことに対する土着豪族としての反発であるともいわれ、南部氏と安藤氏との宿命の対決はここから始まるとされている。