しかし今度は南朝方に残った安藤氏もいた。暦応二年(一三三九)六月に尻八楯に討ち入りをかけた安藤四郎がその例である(史料六八二)。
翌暦応三年(興国元年)十二月、この夏に父親房のよる常陸の小田城を経由して陸奥に入ったばかりの顕信は、南部政長に対して書状を送っている(史料六八四・写真158)。その冒頭で触れているのは、やはり津軽安藤氏の動向であった。「津軽安藤一族が、御方に参じたのはめでたいことだ」と述べられているが、これは前年の尻引楯討ち入りの安藤四郎のことを指しているのであって、安藤氏全体の勧誘を政長に期待している節があるが、ことはそう簡単ではなかった。
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写真158 北畠顕信御教書