検断奉行への抜擢

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尊氏より奥羽掌握を命ぜられた関東執事斯波家長は、安藤家季を検断奉行(けんだんぶぎょう)に抜擢(ばってき)した。その家長が北畠顕家との戦闘で死んだのちに、奥州総大将として多賀府に着任した石塔義房は、家季に替えて五郎太郎高季改め安藤太師季を同職に登用した。安藤太とは安藤又太郎のことであり、宗季出家後、この嫡子の通り名に改めたらしい。高季の名は、かつての北条高時からの一字拝領によるものであり、ここで新たに尊氏執事高師直(こうのもろなお)の「師」字を拝領して改名したのだとされている。尊氏方への協力の決意の証(あか)しであろう。
 しかし今度は南朝方に残った安藤氏もいた。暦応二年(一三三九)六月に尻八楯に討ち入りをかけた安藤四郎がその例である(史料六八二)。
 翌暦応三年(興国元年)十二月、この夏に父親房のよる常陸の小田城を経由して陸奥に入ったばかりの顕信は、南部政長に対して書状を送っている(史料六八四・写真158)。その冒頭で触れているのは、やはり津軽安藤氏の動向であった。「津軽安藤一族が、御方に参じたのはめでたいことだ」と述べられているが、これは前年の尻引楯討ち入りの安藤四郎のことを指しているのであって、安藤氏全体の勧誘を政長に期待している節があるが、ことはそう簡単ではなかった。

写真158 北畠顕信御教書