この現象は、京都を中心として遠隔になるにしたがい、かわらけが減少する傾向に対応し、中世後期において各地域社会が自立的成長を遂げるなかで、京都との社会的・文化的な距離を反映しているとみられる。そのベースには、前代から引き続く地域の伝統性があり、汎列島的な経済圏や文化的な同一性が成立していながら、いまだ地域の主体性や独自性を維持していた結果なのであろう。東日本における陶磁器とかわらけの比率を大きな目で比較したのが、図47である。
図47 東日本の陶磁器類組成
この図から、ほぼ五〇〇〇平方メートルほどの発掘調査をすると、地域の主要な城館からは千点以上の陶磁器と数千から数万のかわらけが出土し、その組み合わせに地域差や城館の性格の差異をみることができ(表6)る。
表6 陶磁器類出土破片数比較 |
遺跡名 | 調査面積 (m2) | 国外陶磁 | 国内陶磁 | かわらけ | 計 | 1m2当り (全体) | 1m2当り (陶磁器だけ) |
浪岡城内館 | 5,966 | 4,376 | 2,785 | 0 | 7,161 | 1.200 | 1.200 |
真里谷城 | 4,280 | 856 | 387 | 1,600 | 2,843 | 0.664 | 0.290 |
江上館跡 | 5,775 | 2,272 | 5,361 | 4,445 | 12,078 | 2.091 | 1.322 |
朝倉氏館 | 8,195 | 1,627 | 3,696 | 101,915 | 107,238 | 13.086 | 0.650 |
京都文化と直接的なつながりを有する越前・朝倉氏館の場合は、かわらけが九五パーセントの量で出土し、宴会を主目的にした政庁的性格を示している。しかしながら、かわらけが多いからといって陶磁器が少ないかというとそうではなく、五千点以上の陶磁器が出土することは、陶磁器に対する権威性も失ってはいない。
新潟県の江上(えがみ)館跡は朝倉氏館よりかわらけの量は少ないものの、三七パーセントの比率を有する。千葉県の真里谷(まりやつ)城は、面積の割に出土陶磁器・かわらけの量は少ないが、それでも五六パーセントのかわらけが出土する。これに対し、浪岡城跡(写真172)は内館という城主が居住した空間と推定される場所であるにもかかわらず、一五・一六世紀におけるかわらけは皆無の状況である。ここで「かわらけ」がもっている器としての性格の問題が浮かび上がる。
写真172 浪岡城跡航空写真
かわらけは素焼きの器であり、使用に当たっては儀礼的、つまり宴会などにおけるハレの場における酒坏として使われることが多い。そして使われ方は、現在の神前結婚式でみられるように一度だけ使用し、二度と同じ器を使わないという禁忌(きんき)を内在している。この使い方の裏には、精神的土壌として一種の「穢(けがれ)」観があるためと考えられており、日本文化の一断面を示している。
もし「かわらけ」が「穢」観と不可分の器だとすると、北日本地域は「穢」観という精神的土壌が希薄な地域と考えることもできる。中世社会は、地域によって「うつわ」に対する感覚の相違が存在しているのかもしれない。