津軽独立に向けて

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天正十一年(一五八三)、安藤愛季は由利郡に侵攻してきた庄内の大宝寺氏を出羽郡由利郡に破る一方で、比内の浅利勝頼(あさりかつより)を檜山城にて謀殺し、浅利領を併合する(史料一〇四七~一〇四九)。
 為信は、大宝寺氏の由利郡侵攻に際して秋田への出陣を求められていたようで(史料一〇四一)、さらには、浅利勝頼の子頼平(よりひら)を支援し、天正十二年から十五年にかけて比内に軍勢を進めている(史料一〇五七~一〇五八)。為信の行動は、南部信直(写真200)が着々と地歩を固め、権力強化を進めているのをみての行動であったという。

写真200 南部信直

 さらに、天正十三年(一五八五)三月には外浜油川城を攻略し、それに続いて高田・荒川などの領主を降伏させ、外浜一帯の領有化に着手する(史料一〇五九~一〇六一)。さらに、同年四月末には、為信の行動の鉾先は糠部に向けられ、その余波が浪岡や大光寺など各地に及んでいることが、愛季より鹿角の大湯氏に伝えられている(史料一〇六五)。これに対して、南部勢は、同年四月に名久井城主東政勝(ひがしまさかつ)が八甲田口より浅瀬石を攻めるが、敗走する(史料一〇六二~一〇六四)。
 為信は、愛季との戦いのあと、いったんはその勢力を後退させたものの、天正十一年以降再びその勢力を伸張させ、津軽地方は「津軽独立」に向けて動き出すことになる。しかしながら、豊臣政権の「惣無事」の論理による「天下統一」といった大きな波にいやおうなしにのみ込まれていくことになった。したがって「津軽独立」は豊臣政権とのかかわりのなかでその実現を目指すことになったのである。