農民は田畑の耕作や、その他の労働に従事して暮らしを立てていた。収穫した作物から年貢を納入するように定められ、残りで自分たちの日々の生活を賄なわなければならなかった。冷害など天候不順により凶作になることが多かったため、豊作の年にはできるだけ蓄えをして、凶作の年に備えなければならなかった。
戦国時代の津軽地方における農民の生活を知る手がかりを得るものとして『永禄日記』がある。『永禄日記』には飢饉について二つの記事が見える。一つは永禄二年(一五五九)の年に地震や大雨、干ばつにより津軽地方の天候が不順となり飢饉となったというものである(史料九四四)。また永禄八年(一五六五)には、「(前略)夏中東風強ク六七月蝉之声一向不聞、(中略)七月末方迄出穂有、八月五日大山セ吹候て稲黒ク相成候、大豆の葉も赤くかはき候、当年ハ昔より無覚大凶年、米直段之覚、壱俵三拾匁」(史料九六二)と深刻な状況であったことを伝えている。翌永禄九年(一五六六)には「正月、去年十二月より段々非人多く出、所々道ニ死人以之外多」(史料九六二)という悲惨な状況であったことを伝えている。そのような状況下であっても武士はできるだけ年貢を取りたてようとしていたために、農民の生活は一層に悲惨なものとなっていったのである。
さらに、そのような天災に加えて、戦乱による人災もまた多かった。せっかく収穫できるまでに成育した稲や作物を合戦のために意識的に焼いたり、川に流したりと、目を覆いたくなるようなことが行われていた。また戦場になったり、敵の通路にあたった村々では、農民が傷つけられ、家屋が焼かれ、田畑も人馬で荒らされた。さらに村に放火することもしばしば行われていた。
被害を受けた農民の中には、苦労して作った農作物がだめにされたことに腹を立て、牛馬の尾を切ったり、たたいたり、さらには殺したりすることが、関東地方では行われていた。それは牛馬の持主がたいていの場合、武士であったからといわれている。津軽地方においても農民の暮らしは過酷であったことから、そのようなことも行われていたのではないかと想像されている。