当市域内には、これらの城館跡に属さない城館も存在している。西北域の船沢(ふなざわ)地域にも、城館跡の築城年代はもとより、館跡の由来・沿革がまったく不明なものなどがそれに当たる。「宮館の七ッ館」あるいは「中別所(なかべっしょ)の七ッ館」と呼称される、玄蕃(げんば)館跡・二ッ館(ふたつだて)跡・隈館(くまだて)跡・城(しろ)館跡・荼毘(だび)館跡、中別所そして宮館跡も、その性格や役割についても不明な点が多い。ただこれらの館跡には、鎌倉時代の大小の板碑群が五一基(公卿塚(くぎょうづか)六基・石仏(せきぶつ)四十五基)あることなどから、中世前期の城館跡であった可能性もある。
また発掘調査によって一二世紀から一三世紀にかけて使われたことが明らかとなった中崎(なかさき)館跡(中崎館遺跡)や、一五世紀から一六世紀にかけて使われた境関(さかいぜき)館跡(境関館遺跡)など、戦国時代以前の城館跡なども存在している。