武士と庶民の喧嘩

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今藤太郎と川元直勝の二人が、文化十四年(一八一七)七月十九日に賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町賀田)へ夏の踊り(盆踊りと推定される)を見物するために出かけて行った。その帰り道に群衆の何者かと、ふとしたことから喧嘩(けんか)となった。二人は自分たちの身の危険を感じ刀を抜いて追い払った際に、切りつけられて傷を負った者が出たことが判明した。今と川元は武士としての身分は定かでないが、事件の顛末を取り調べられ、家老の笠原八郎兵衛宅で隠居を申し渡された(「国日記」文化十四年十二月六日条)。江戸時代の武士の隠居には、罪科(ざいか)隠居・願出(ねがいで)隠居の別があった。この判決例にみえる隠居は、刑罰として強制的に隠居を命じられる罪科隠居のことである。