政府軍の苦戦

238 ~ 239 / 767ページ
七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した。そして、十一日には、最初の衝突があり、これに勝利した総督軍は、新庄藩領までを手中に収めたのであった。
 しかし、新庄藩の離反を受けた庄内勢は、白川方面へ向けた酒井吉之丞・松平甚三郎の軍を反転させ、新庄攻撃に当たらせた。この反撃の勢いは強く、官軍方は敗退を余儀なくされるとともに、新庄城下は戦火に包まれた。十四日、総督軍は院内(いんない)口まで引き揚げた。その後も仙台藩などを中心とする同盟軍に対して総督軍の苦戦は続き、応援の米沢兵が同盟軍に合流したこともあって、同盟軍は圧倒的な数をもって、七月二十八日、雄勝(おがち)・湯沢方面への攻撃を進め、横手領へと進入するのである。そして、勢いを味方に付けた同盟軍は、八月十一日には横手城をも落城させたのである。
 一方、海道方面を侵攻して庄内に攻め入るはずの総督軍は、七月末には象潟(きさかた)方面にまで後退していた。七月二十七日から二十八日にかけては、鳥海山(ちょうかいさん)を越えてきた同盟軍の奇襲によって矢島藩も陥落し、矢島藩主生駒氏は秋田領へ逃げ延びた。続いて象潟方面の総督軍陣地が相次いで攻め落とされ、八月一日には官軍諸藩は本荘藩まで退却した。