木古内口の攻防

280 ~ 281 / 767ページ
上陸後、木古内口を進軍したのは、征討軍の監軍和田慎之助率いる軍隊だった。木古内口は旧幕府軍の抵抗が強く、なかなか突破できない難所となっていた。
 木古内口戦力として五勝手(ごかって)村(現北海道檜山郡江差町)に駐留していた連隊には、弘前藩兵も含まれている。四月十日、この時、待機を命じられていた弘前藩兵は諸藩の進発を見送りながらもそのときを待ちかねていた。やがて、進軍して木古内口を攻めている和田や藤井源之進の指示を仰ぐように命令を受けると、同部隊は勢い込んで出発していく。しかし、現地に到着してみると、そこに味方の兵はなく、笹権六郎隊と石山真太郎隊がはぐれてしまうという事件が起こった。彼らが本隊に戻るのは、四月十二日になってのことだった。この事件について和田慎之助より厳しく咎めを受け、進軍停止と事情の説明を命じられた。これに対して弘前藩側は、ことの顛末の報告と、三人の敵兵を拿捕(だほ)したことを申し述べた。また石山真太郎も、敵兵と戦闘となったこととその戦果について届け出た。
 結局のところ、十一日に旧幕府軍へ攻撃をしかけた政府軍だったが、実は攻めきれずに弘前藩兵が到達するころには軍勢を引き戻していた。この日、旧幕府軍には大鳥圭介隊も合流し、逆に政府軍が陣をおく稲穂峠(いなほとうげ)へ反撃を開始した。しかし、こちらも攻めあぐね、両者譲らずの小競り合いが繰り返されることとなった。
 なお、弘前藩は十三日の木古内口における戦いで一中隊が先鋒を命じられたが、結局勝敗は決まらず、負傷者を出したことが弘前藩惣隊長杉山上総より報告されている。

図71.木古内口の攻防図