会合や来客があった時の食事では、「国日記」元禄五年(一六九二)十一月二十一日条に一汁二菜とある。そのほかに宝永三年(一七〇六)十二月(前掲『津軽信政公事績』「国日記」正徳元年(一七一一)八月二十六日条、同四年十一月一日条、享保九年十月十五日条、享和三年(一八〇三)七月十二日条(資料近世2No.二〇八)、文化四年(一八〇七)十二月十五日条、同八年九月一日条、文政十年(一八二七)十二月二十八日条にもみえている。
一汁二菜~一汁一菜は「国日記」元禄八年九月二十八日条、同年十月十九日条(同前No.二〇五)、寛延三年(一七五〇)八月四日条にみえるだけであるが、元禄八年は元禄の大凶作、寛延二年は凶作であった。
一汁一菜は「国日記」天保二年(一八三一)四月十三日条、同十年十月十日条、同十二年十二月二十九日条、嘉永六年(一八五三)十二月十一日条にみえる。
このように一汁二菜の場合が多く、それが幕末の天保年間(一八三〇~一八四三)以後には、藩財政の窮乏が藩士の家計を圧迫して食事にも反映し、一汁一菜に変わってきたのである。