農家の遺構

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一般農民の家屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である。これに対し、萢中(やちなか)村(現市内萢中・浜ノ町東)にある石戸谷家名主(なぬし)(庄屋)を務めたこともある豪農で、文政五年(一八二二)の建築と伝えられている。間口一六間(約三二メートル)、奥口(梁行)六間(約一二メートル)に、縁・玄関などの下家(げや)(母屋(おもや)にさしかけてつくった小屋根)を加えると百坪余(約三五〇平方メートル)となる。図をみると、向かって右端から六間余(約一二メートル)は「うまや」と「いなべや」と称する作業場などで占める。背面の「げなんべや」二室と「うまや」とには別に中二階を上げる。上下四室からなる「げなんべや」には最大の時で二〇人ほどの常雇いを置いたという。広い玄関とこれに続く一八畳敷きの「ちゃのま」、次の間をもつ広い「ざしき」などの居住空間から、「うまや」「いなべや」などの生産部分や中二階を持つ「げなんべや」まで、主棟に整然と収容した住居である(草野和夫『青森県の民家』一九七七年 東奥日報社刊)。

図119.石戸谷家平面図