大沢における製陶

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御用留書」(弘図津)の慶応元年(一八六五)八月三十日条によると、下川原瀬戸師金蔵(後の姓高谷)は、かねて信仰してきた妙見堂の移転に関する申し立ての中に「四十年已前、大沢村ニ而白焼瀬戸座(磁器焼成)取立之節」とあり、大沢の瀬戸座は文政八年(一八二五)ころの開窯であることが認められる。磁器焼成の技術については文化初年ころ(一八〇四~)、金蔵が北九州へ渡り、有田(現佐賀県有田市)で習得に努めたと伝えているが、導入の経緯については明らかでない。金蔵は大沢のあと、下川原に移って筑前から入国してきた陶師五郎七らと磁器の焼成に当たった。大沢の窯は東西方向のやや急な斜面に築かれた登り窯であったが、現在は窯跡を含め周辺は果樹園に造成され、「大沢焼窯跡」と記された標柱が立てられている。製品は磁器が中心で茶碗・皿等の食器類・香炉・水滴・花瓶(びん)その他種々の器物が試みられている。釉も種々試みられており(染付もある)、白磁は李朝のそれを思わせるあたたかみのある釉調を呈しているといわれる。なお、焼成に関する記録は現時点では前掲の一件のみで、遺品も少なく、ごく短期間で終わったものとみられている。