節倹規約証

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松方デフレによる農村の窮乏への対応として、明治十八年五月農商務省から「済急趣意書」が布達され、それに基づき、全国の農村で府県庁の指導下に勤勉、節倹、貯蓄をうたった村規約が制定された。この年、井上毅は伊藤博文のもとで憲法制定の作業に多忙であったが、『奢是吾敵論』を出版した。農商務省蔵版で仏国ビュフヲン氏著、日本井上毅氏訳とあるが、弘前出身の陸羯南(くがかつなん)が太政官の文書局におり、その訳業を助けていた。内容は、古代ローマの興亡から一九世紀後半のフランスの政情不安まで奢侈(しゃし)による人間性の堕落の点から考察したもので、暗に維新以来の日本の皮相的開化主義、特に鹿鳴館(ろくめいかん)時代に警告を発したものである。この本には農商務大輔品川弥二郎や元老院議長柳原前が序を書いている。かくて、青森県の多くの村でも明治二十年、二十一年に節倹規約証が作成された。
 南津軽郡八幡舘村では次のような取り決めをした。
  節倹規約証
第一条 壮盛十五才ヨリ五十歳迄ノ分ハ外一日ニ草鞋弐足ツツ常備スヘキ事
第二条 結婚祝儀之節ハ膳部ヲ廃止、隣家重キ親類共四五名 但樽持参之義ハ無用タルヘキ事
第三条 正月振舞ハ決テ他ヲ招事無用
第四条 家普請手伝之儀ハ中家以上之分昼賄無酒夕ハ通常之事 中家以下ハ飯汁計リニテ可取計事
第五条 不幸之節ハ中家以上無飯ニテ酒計リ中家以下之分ハ無飯無酒ニテ手伝スヘキ事
第六条 男女年振舞之儀ハ隣家重キ親類四五名 但樽持参無用タルヘキ事
第七条 居村飲食店ト雖モ弐名以上集会酒呑間敷事
第八条 収熟之世ノ中ニ成トモ廻シ餅決テ無用タルヘキ事
第九条 岩木山登山之節迎人ニテ樽肴持参致間鋪事
第十条 獅子踊之儀ハ旧八月朔日ヨリ九月廿九日迄三度限リ余踊ルコト無用タルヘキ事
第十一条 煩悩神(ボーノカミ)退散祭ノ義ハ決テ奢ル事無用タルヘキ事
第十二条 若者夜遊タリトモ太鼓三味線尺八歌拍子ニテ楽ム事無用
第十三条 右定約ヲ違背スルモノハ金壱円過料ニ処シ
 右条々明治廿一年ヨリ向満三ヶ年間堅ク可相守事
  明治廿一年一月三十日
            村中総代人 須郷茂八印
            右 同   今井久左衛門印
 これは疲弊した農村の建て直しに農民自身が立ち上がった形式に見えるが、実は明治五年の「陋習洗脱(ろうしゅうせんだつ)致す可き旨」の禁令の焼き直しである。明治五年の菱田権令の時代は「元来東北ノ僻陬(へきすう)、自ラ固陋ノ風習ヲ免レザル故ニ、市在ノ長タル者」「懇々愚民ヲ喩(さと)シテ陋俗ヲ洗脱セシムベシ」として、寝室の便器に至るまで細々と禁止事項を並べ、結局人心を失った。したがって、今回は雛型は役所で示し、形は村自身の発意に似せた。しかし、真実は、資本の原始的蓄積強行のもとに犠牲となった農民たちを、ささやかな共同体での癒しから切り離す冷たい生活改善法だった。津軽の地主制度は、一度明治三年の帰田法で覆るが、この明治十年代後半の大不況によって貸金業者の多い地主制が農村を支配した。