明治六年(一八七三)に地租改正に関する布告が出され、旧来の租法や土地制度の改革が始まった。県は地租改正の実施に当たって、その手順等を大蔵省へ稟(りん)議し、指令を得ている。
稟議書の内容は、地租改正の実施に当たり、管内一千数百ヵ村の取調は困難であるので、三年計画を立て、順次実施したいことを冒頭に掲げ、また、判定が困難な土地や旧慣に関わる土地、山林、飛地などについて質問を連ねたものである(資料近・現代1No.一七三)。
このうち、地租改正実施の順序については次の手順で実施することを提案している。
北郡(現上・下北郡)(反別凡四八〇〇町余)、明治七年十月ヨリ同八年四月迄
二戸、三戸郡(反別凡一〇五〇〇町余)、明治八年十月ヨリ同九年四月迄
津軽郡(反別五四〇〇〇町歩余)、明治九年十月ヨリ同十年四月迄
県の稟議書は、北郡から順次、地域別に実施することの是非を問うたものであり、大蔵省は、地域的な不公平がないことを要求している。上記の点以外に、荒地や漆畑、山林地価、飛地など、具体的な地租改正実施の細部につき、質問や回答がやりとりされている。この中で注目すべき点は、北、二戸、三戸郡の一部で、旧来九〇〇坪を一反歩としていた地域があるのを、通常どおり三〇〇坪を一反歩としてよいか、県が質問をし、大蔵省がこれを認めていることである。このことは、反別の増加、したがって貢租の増大を意味している。
なお、北郡から順次地租改正事業を行いたいとする県の方針は、大蔵省の指示により否定された。青森県の地租改正事業は、山林を除き、明治九年(一八七六)中には完了している。これは全国的に見ても早い方に属する。
地租改正に際し、県は県民に対して「地租改正に付人民心得書」を発表した。これは、大蔵省の指示を踏まえ、実際の地価認定作業の手順を定めたものである(同前No.一七四)。
明治政府が全国に向けて示した「地方官心得」によれば、自作地と小作地を区別して地価を算出することになっており、それぞれ検査例第一則、同第二則と呼ばれていた。しかし、前掲の「地租改正に付人民心得書」では、第一四条において、直作、小作の別なく地価を算出することになっている。すなわち、すべての耕地は検査例第一則に従って地価が算出されたのである。また、実際の地租改正作業での図面作成作業など、細部の指示がなされていた。
津軽地方での地租改正の実施については、北津軽郡飯詰村(現五所川原市)での実施の様子が、使用した筆記具に至るまで記録に残されている。それによれば、明治八年に村の中堅的な農民が区長により検査人に選ばれ、村人が人夫として動員され、県官と協力しつつ地租改正が進められた。飯詰村では後に、動員された農民が、作業に対する人夫賃の支払いに不満を持ち、県に訴願するに至っている。この騒動は人夫賃の不足分を支払うことで和解に至った。この騒動自体は地租改正そのものに反対しているのではないが、地租改正の後も地租額の支払いに苦しむ農民(小前層)が、人夫賃の金額に対して不満を募らせたものである。地租改正が順調に進んだのではないことを示している。