この
巡幸に供奉・随従した陣容を見てみよう。第一に、皇族としては北白川宮能久親王、左大臣有栖川熾仁親王の両殿下をはじめとして、参議大隈重信、同大木喬任、宮内卿徳大寺実則、ほかに侍従十二名、宮内省からは出納課、内膳課、調度課、内廷課の係官、ほかに内務省、大蔵省の係官であり、侍官はすべて数名の属官を従えた。護衛としては近衛歩兵と騎兵合わせて数十名、これを率いたのは近衛歩兵少佐
立見尚文であった。この
立見尚文は、後に
第八師団が弘前に設置された際、初代の
師団長として来任し、市民たちにも親しまれた人物である。ほかに輿の係り十数名、厩の係り十数名、馬丁四十数名、馬の数六十頭、さらに一行の日用の手廻り品を運ぶ人足は百名を超え、全体として二百名を超えるという大部隊であった。
写真33 御巡幸絵図・本町五丁目角
以上の
巡幸の本隊のほかに、経路に当たる先々に先行して宿泊その他の諸準備に当たった先発隊があった。これには参議黒田清隆、内務卿松方正義が二十数名の係官を率いて行った。
巡幸を迎える各地方の地方官に対しては、「地方官心得書」が布達された。これに従って時の県令
山田秀典は陣頭指揮をとり、県官五〇名、警部二二名、巡査四七名という総動員の陣容をもって諸準備や沿道の警衛に至るまで遺漏なきを期し、無事大任を果たすことができたのであった。