弘前で最初に開設された近代的小学校は、明治六年二月開校の私立東奥義塾小学科である。生徒一〇〇人余を教育していたが、同年十月、公立の一番小学開設に際して生徒の半数を送り、同年十二月に二番小学が開設されると残りの半数を送り、十二月をもって廃止した。
当時、弘前は県内最大の都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的にも経済的にも公立小学校開設の条件が整っていた。それを裏書きするように、県内でも弘前だけが同一地区に二校の開設をみたのである。それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立和徳小学校)である(なお、和徳小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』では六年創立となっている)。
しかし、学制第六章には「人口約六百人ヲ以テ一小学区トナス」とあるから、弘前はなお多数の小学を必要としたが、そこまでは手が回らなかった。