校名改称と一校新設

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明治七年三月、学校番号について左のような通達があった。
学校名称之番号可取除(とりのぞくべき)旨、督学局ヨリ御達ニ付(つき)、以来取除候条此段相達候事
   明治七年二月十八日
           権令 北代正臣代理
            青森県権参事 那須均
 この通達により、これまでの学校番号の名称は取り除いて、学校所在地を校名とするよう改められた。一番小学は本町一丁目角の大津屋の民家を校舎としていたが、七年二月には上白銀町一番地(現弘前市庁舎敷地)の元西館宇膳の家屋に移っていたため、校名を「白銀小学」と改称、二番小学は和徳町六番地にあったので「和徳小学」と改称された。
 また、七年四月十日亀甲町二番倉庫を校舎に充て、一校が設置され、「亀甲小学」と称した。これが現在の弘前市立時敏小学校の前身である。

写真53 亀甲小学校舎絵図
(明治7年)