明治三十五年(一九〇二)四月、これまでの学区会が廃止された。弘前市の学区は第一区から第五区まであって、学区は小学校を維持するために学区会を組織し、一三人から一五人の区会議員を選出した。学区会のことを通常「区会」、学区会議員を「区会議員」と称した。
三十四年末から学区廃止が問題とされていたが、三十五年末に至って県知事から諮問案が出されてようやく表面化した。学区が制定されたのは明治二十五年、それから一〇年間というもの、小学校の経営維持は学区民から選ばれた学区会によってなされた。小学校の発展充実は、区会によって決定された事項を支持し、経済的な支援を惜しまなかった学区民に負うところが甚大であった。校舎の新築、校地の購入、校具や教具の備品など、どれ一つとして学区の助力に負わないものがない。しかし、学区の設置は一面において弊害をもたらした。区会が勢力を持ち始め、県や市に対抗して、政府文部省が計画する学校教育の一本化がはかどらないこと、小学校が区会に左右され、学校教育が区会のボス的存在に悩まされ、本来の教育がなされないことなどである。
一方、このころになると、県や市はようやく経済力を充実させ、もはや学区に頼らなくても、小学校の維持が可能となってきた。ここにおいて県や市は、小学校を直接支配下に置くことを考え、学区廃止に踏み切ろうとした。しかし、これまで経済面のすべてを負担させておきながら一方的に学区を廃止すると、学区民の怒りを買い、猛反対を食う恐れがあったため、諮問という穏やかな形をとったものである。
教員の団体たる弘前教育会は、教育の発展向上には学区廃止が妥当、と学区廃止に賛成した。各学区とも区会を開いて協議したが、第一区(朝陽)、第三区(和徳)、第五区(城西)は廃止賛成、第二区(大成)、第四区(時敏)は不賛成を表明し、市全体として意見がまとまらなかった。
三十五年三月四日、山之内一次知事は弘前学区会の廃止を命令して、種々論議を呼んだ学区問題も廃止に決定、区会の学校管理にも終止符が打たれた。それ以後も学区は残されたが、それは学校通学区域を指すもので、学校管理権は有していない。