三十七年二月十日、日露戦争の宣戦詔勅が下賜されると、その翌日市内小学校は一斉に奉読式を挙行、必勝の信念を新たにした。各校は軍資金を献納したいと弘前第八師団に願い出、献金をしたが、弘前教育会は臨時総会を開いて、教員は戦争終結まで俸給の二割を軍に献金することを決議した。このことが県下に波及して、すべての教員が毎月俸給の二割を軍に寄付することになった。
各小学校は出征兵士の歓送に授業を休むことも多く、校舎の一部が野戦兵器廠(しょう)の舎屋となり、運動場は教練場になり、そのため学習が満足に行われないことも多かった。しかし、小学校は軍の言いなりになっていたわけでない。学校は教育上軍に要望があるときは、はっきりとそれを提示し、軍も虚心坦懐にそれを聞いた。
和徳小学校で、校舎を工兵隊及び輜重(しちょう)輸卒隊の炊事場に貸していたとき、炊事場ではときどき食糧用の豚が屠(と)殺された。児童の前で豚を屠殺するのは、教育上悪影響ありと、校長は再三取り止め方を申し入れたが、らちが明かないため大隊本部に出頭し、大隊長に激しく抗議した。それで豚の屠殺は改められた。抗議する校長も立派だが、それに従う軍人の態度も寛大で気持がよい。
そのほか、小学校児童が協力したのは戦闘祝捷会の参列である。遼陽占領、奉天占領、黒溝台占領祝捷会、旅順陥落祝捷会など、そのたびに児童たちは旗行列で気勢を挙げなければならなかった。また、弘前予備病院(後の陸軍病院)に入院した負傷兵の慰問、あるいは戦地の将兵を励ます慰問文も児童たちの仕事だった。明治三十八年二月五日から九日までの五日間に弘前市内の小学校児童は、第八師団後備歩兵第五六連隊の出征兵士を一四回にわたって歓送した。歓送は深夜にわたることもあって、児童たちは不眠不休で尽くした。
三十八年九月、日露間に休戦条約が調印され、十二月になると出征兵士が続々と凱旋し、今度はその歓迎に児童たちは忙殺された。凱旋帰還があまりに頻繁なため、弘前市役所はいちいち通知する暇がなく、帰還の日時、通路を書いたのぼりを立てて、大太鼓を連打しながら市内を巡回したという。
写真107 日露戦争凱旋門(百石町)
戦勝に果たした小学校の功績は大きい。当時手取(てっと)り早く人数を動員できる組織は小学校だけだった。政府は小学生を動員することによって、国民の戦意を高揚させ、出征兵士の覚悟を新たにさせた。その点で小学校ほど勝利に貢献した組織は、ほかになかったといっていい。