公園開設

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その後、各地の城跡が旧領主からの願い出によっては払い下げられている事例が続いた。津軽家でも弘前城跡の払い下げを再三請願したが、陸軍省では将来的に必要になる目的があるといって、払い下げは認められなかった。ただ、公共用としては使用を許すべしということであった。津軽家では、二十六年六月弘前市と合議の上、市の公園として借用することにして、一五ヵ年の期限つきで請願した。実は津軽家で公園の設備費や維持費の一切を寄附し、やがて将来は払い下げをしてもらおうというつもりであった。同年七月十日に陸軍軍吏が実地取調べに出張し、翌二十七年九月五日に指令があって、城跡総面積一四万四八三九坪(池濠・土塁を含む)を今後一五ヵ年間公園として使用することの許可があった。このとき、公園の管理規程と公園設計書を次のように定めた。
    管理規程
一、弘前市公園管理ノ為メ、相当ノ受託者ヲ置キ、園内ノ築造及模様変更修補等、凡テ風致ヲ保持スルニ注意セシム。

二、公園管理受託者ハ、本市参事会ニ於テ定ムル所ノ公園使用手続、其他ノ規程ヲ確守シ、其責ニ任ズ。

三、管理受託者ハ、其筋ヨリ引渡サレタル建造物及樹木壕塁等ノ保管ヲ怠タルトキハ、其責ニ任ズ。

四、公園ニ係ル経済ハ市税外特別トシ、地所使用料、寄附金其他枯損竹木等売却代金ヲ以テ之ニ充ツ。

五、公園ニ係ル寄附ノ物件等アリタル場合ハ、市参事会ニ於テ之ヲ処分シ、受託者ニ使用セシム。

六、弘前市公園ハ毎年四月ニ開キ十二月ニ閉ヅ。

    公園設計書
第一、旧城地は元ヨリ数百年ノ喬松老杉森々トシテ自然ノ公園ヲナスト雖モ、先ヅ第一着ニ三ノ郭、旧庭園地ノ荒蕪セルヲ掃除シ、更ニ花樹花草ヲ植エ、公衆ノ遊園所トスヘシ。

第二、本丸ハ高陽ノ地ニシテ遠望ニ適スルヲ以テ、雑草ヲ除キ花樹草ヲ培植シ、散歩眺望ノ地トスヘシ。

第三、外郭塁壁中、辛未已来乱生セシ小柴及雑草ヲ排除シ、観望ノ美ヲ添ントス。

第四、外周濠ヲ堀リ上ゲ貯水ニ堪ユルノ修築ヲナシ、地ノ適否ヲ計リ、蓮又ハ花菖蒲等ヲ移植シ美観ヲ計ルヘシ。

第五、二ノ郭ヨリ本城ニ在ルノ橋並ニ其他各所橋梁破損危険ナルヲ以テ、漸次修築遊歩ノ便ヲ計ルヘシ。

第六、前各条修築ノ後ハ漸ヲ以テ四ノ北郭ノ旧庭地、西ノ郭池水ヲ修繕シ、衆人ノ遊園ニ適スルノ設ケヲナサントス。

第七、三ノ郭ニ在ル建物ヲ修繕シ、番人ノ住所トス、其他便宜ヲ計リ各所ニ休憩所ヲ設ケ、公衆ノ便ニ供セントス。

第八、城地樹木薄立ノ増益ヲ計ルヘシ。

第九、三ノ郭、四ノ北、西ノ郭中遊園ニ適セズ単ニ荒蕪ニ属スル場所又ハ小柴立等ニテ公益ヲナサザル場所ニハ、有用ノ樹木或ハ花樹草ヲ栽培スベシ。

第十、公園営造ノ費用ハ市税ヲ賦課セズ、寄附金ヲ以テ之ニ充ツルノ目的ナルユヘ、年々金額ノ増減ヲ免レズ、依テ其年ノ金員ニ従ヒ、緩急ヲ計リ、漸次修築スベシ。

第十一、維持費モ亦寄附金ニ依ルベシト雖モ、雑草枯枝果実等ヲ売却シ、費用ノ幾部ヲ補助スベシ。

(『津軽承昭公伝』)

 こうして、明治四年の廃藩以来荒廃に任せていた城地は、二四年ぶりで公衆に開放されることになった。そのころの様子については、「廃藩後地は陸軍省の所轄となって門扉を閉せしこと二十有余年、大達荊棘を茂生し、濠溝水涸れ、荒涼索寞の状、人をして転た悲愴に堪へざらしむ。すなわち荊棘を除き橋梁を架し、市民遊覧の地とする。新たに杉の大橋を架す。昔時に及ばざるべきも、見るべきものあり。天主もまた開きて有志博物舘とし、徴古の物を陳ず。」云々(成田果『鷹ヶ丘城』)とあることから、その一斑をうかがうことができよう。
 こうして二十八年五月二十日に公園は開園され、翌二十一日に本丸で開園式を行った。追手門と東門には「弘前公園」と掛札をかけ、早朝から開かれ、自由に遊歩できるようになった。折からの好天気に、見物かたがた酒や弁当を携えてくる人々や団体で、ひきも切らぬ盛況であったという。
 公園にはたちまち遊楽客目当ての露店が開設された。まず、七福楼というのが初めで、六月には橡ノ木の料亭酔月楼が本丸に支店を設け、また、一弘亭でも「東京そば」売り出しの店を始めた。
 二十九年になると、陸軍ではかねて計画どおり第八師団を弘前市に設置することになったが、その司令部を旧城内に置くという噂が広まった。そこで弘前公園も陸軍に明け渡し、別に公園を求めねばならないのではないかという心配が起こった。その際、南塘とその付近一帯を公衆遊楽の地にしようと言い出す者もあった。しかし、司令部は結局富田に設けられて、公園存廃の問題は段落を告げた。