食生活の変化

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明治後期の食生活の変化は、いわゆる都会風の食べ物と西洋風の食べ物がこの町にもたらされ、それが市民の日常生活に次第に普及していったことである。この現象は、確かに時代の進展によるところではあったが、弘前の場合は他の生活文化と同様に、外来者ことに軍人やその家族、また、軍隊に伴ってやってきた御用商人たちによる移入と誘因によるところが大きかった。
 在来の弘前の一般的な食生活といえば、飯はともかく、汁は朝晩二度の味噌汁、その実は大根・ねぎ・菜葉(なっぱ)など、冬は干し葉(ほしば)が普通で、豆腐汁は特別の日の献立であった。魚は三日に一度ぐらいで、魚市に鯛の一枚も入るとどこの家で買うのかと不審がられるほどであった。そんな質素な日常が、近隣の軍人家族との交際上、また、対等意識から、毎日でも魚を買う習わしになっていった。例えば漬物などもオグ漬といった冬越しの保存漬だけではなく、上方衆に真似ていわゆる新香(しんこう)が膳に上るようになった。食後にも白湯(さゆ)でなく茶を飲むことにしたり、酒も地方酒よりも軍人や御用商人などが飲む上方くだりの銘酒や、ビール、ブランデーといった洋酒を口にしてみたくなるというふうであった。
 煮豆やつくだ煮などの惣菜類は、軍人家庭の需要のために店売りが始まった。上土手町の野村屋という煮豆屋などは、黒塗りの箱に入れて得意先を回って繁盛したという。
 牛肉も、また、師団設置以来、軍隊による需要が激増し、それがまた一般への普及を助けることにもなった。三十一年に佐野盈之進が日新堂という牛肉販売店を一番町に開いたが、たちまち元寺町に店を拡張し、また支店を茂森町・横町などに設け、さらに南郡碇ヶ関村や西郡木造町にも開設し、一ヵ月に牛四〇頭も販売すると言われた。また、下土手町に津内口牛肉店があり、蓬莱橋近くの犬上牛肉店は陸軍御用を勤めたほか、店で洋食を調えて客に出すので人気があった。こうして三十三年二月には、牛肉商の同業組合結成の気運が動いたほどである。
 牛乳も、日露戦後、飲用のほか洋菓子製造原材料などとして民間の需要も増えた。三十九年、住吉町に開業した長谷川牛乳店では、上方のように瓶詰蒸気消毒の方法で配達するという新販売法を始めた。それまでは牛乳を大缶に入れて運び、いちいち計り売りしていたのである。こうして四十二年には市内の牛乳店は、長尾、長谷川のほかに、相良町の中畑、富田の宮本、佐藤、小野の四軒があった。
 三十九年に上鞘師町にミルクホールが開店し、数種の洋食と和洋酒を客に提供した。洋食店が人々の注視を集め、洋食を口にしだしたのもそのころからである。新若松楼で四十一年に売り出した西洋御料理は、一人前上等二円・中等一円五〇銭・並等一円で、東京から西洋料理人と菓子職人を雇い入れたと言われる。歳暮・お年玉用にと宣伝した菓子は、コンスタンチゼリ(一箇一円)、チキンパイ、ジャミ〔ム〕パイ(各一円五〇銭)、スパ〔ポ〕ンヂケーキ(一円五〇銭)、プラン〔ム〕ケーキ(二円五〇銭)などすこぶる高価なものであった。
 地元の菓子類にも時代の推移がうかがわれる。例えば三十三年ごろには松森町村谷甘泉堂でぶどう羊羹を、親方町田辺では林檎菓子とマルメロ羊羹を売り出した。三十九年には鰺ヶ沢の伊東屋が東長町に開店し、藩政時代から鰺ヶ沢港の名物と言われた鯨餅を販売した。別に新寺町にも鯨餅屋があり、ここの餅は中に熨斗(のし)模様が入って、法事によく用いられた。
 弘前の煎餅(せんべい)といえば、型の大きく、真中に穴の開いたいわゆるアブ煎餅であった。南部煎餅が現れたのは三十年ごろである。元寺町の八戸煎餅屋の役者煎餅が珍しがられ、同町の阿部煎餅屋が、ごま・くるみ・のり・たまご入りなどの新しい煎餅を売り出した。
 弘前名代の羽二重(はぶたえ)餅は、元禄のころの上方菓子であったから、古い移入文化であろう。百石町佐々木菓子店で売った阿波焼も、やはり元禄のころの書物に見える鳴門餅と同じものであった。同店の笹餅も人々に親しまれた。また、家庭で作って子供の間食に与えるものでは、のりかす餅、かる焼、豆を入れたこごり豆、ごま味噌をつけたたんぽ焼やさなご飯などがあった。
 三十五年に市中に焼きいものふれ売りが現れた。「いもやいも、おいものあたたかいの」と言ってふれ歩いた。また、日曜外出の軍人相手に餅屋やパン屋が増えた。洋菓子のくだり物では、三十九年冬に土手町野崎本店に入荷したものに、パタカップ、フルーツドロップスなどあり、風味よく滋養豊富、歳暮・年始の贈答に最適といって宣伝された。翌年には、花蝶印のビスケット、ライオン印のビスケットが東京から入ってきた。
 アイスクリームの売り始めは三十三年ごろであるが、夏はもっぱら富田の清水(しつこ)が市中に売りに出た。手桶に一杯一銭で、人夫四人で売り、一人平均五〇銭の売り上げがあった。ラムネやサイダーが手広く販売されるようになったのは明治の末で、金鶏印(西谷)と朝日印(佐野)、それに青森ラムネがあった。当時はまだ製品も粗悪で、濁ったり、塵が入ったりして、その筋から投棄を命ぜられたことも多かった。
 弘前の夜鷹そばは、その昔、茂森町の相久に始まるというが、三十九年には同業者が四十余人であった。元来、桶に入れて売り歩いたものだが、二十六年ごろ駒越の「山寅」が箱に入れ、また、皿に盛って出したものを、三十五年ごろに茂森町の高田屋がどんぶりにしてから、みな箱に入れて歩き、どんぶりに盛って客に出すようになった。
 二十七年、本町橡ノ木に開店した一弘亭が東京そばを売り出し、二十八年には戦勝にちなんで大和そば・勝そば・北京そばなどの名で売った。三十九年には市内の東京そば屋は、東京庵・観月亭・花月庵・品川亭・叶家・東北庵などがあった。これまでは夜鷹そばか、煮売り茶屋の店先で食べていたものが、東京そばは座敷に上がって食べるというので珍しがられた。叶家(代官町)では夏に冷麦を売り出したところ、市内に三〇〇軒の常得意ができたという。また、料亭中三では三十八年ごろから鰻の蒲焼や鰻どんぶりを売り始めている。