わが国活動写真の始まりは、明治三十年(一八九七)に外国から輸入された「動く写真」であった。三十二年に歌舞伎狂言『紅葉狩』を映したのが、日本物の最初と言われる。
弘前での最初は三十三年五月、柾木座に来た米西戦争(一八九八年)の活動写真であった。もちろんまだ幼稚な技術ではあったが、三十七年四月には戦争勃発の国内情勢などの写真が茂森座で観覧され、日々大入りであったという。こうした時局認識の点で、活動写真が国民に与えたものは大きかった。三十九年十月には、戦後の廃兵慰問活動写真という名目のものが柾木座で催された。そのフィルムは大日本陸軍凱旋大観兵式の様子を映したものであったが、ほかに日本名所巡り、奇術魔術などの娯楽物数篇があったことが注意される。この第一日目の入場者は約九〇〇人という盛況であったが、新聞の評によれば、「写真はあまり結構なものではなく、この前に来たのよりも劣っている。大観兵式の如きも、弁士は写真の不鮮明なのではなく全く塵埃のためであるというのが、かのピラピラまでもまさか塵埃のせいではあるまい。記者は目が変になり、九時過ぎに逃げ出したから余り詳しく分らない」(『弘前新聞』明治三十九年十月十二日付)とあるように、お粗末なものであったと思われる。