生い立ち

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中田重治(なかだじゅうじ)は明治三年(一八七〇)十月二十七日、弘前市北新寺町に生まれた。父は中田兵作といい、津軽藩士だった。重治は四歳にして父を失ったが、長兄久吉(きゅうきち)が東奥義塾から明治八年陸軍教導団に入って働く母とともに生活を支えた。久吉は後に金沢で受洗、メソジスト派牧師となって各地に伝道、軍人あがりの伝道者として有名だった。

写真129 中田重治

 明治九年、重治は東奥義塾に入学、英語教師ドレーパーのもとで洗礼を受けた。重治は伝道者を志し、恩師本多庸一の青山学院に学んだが、明治二十四年の神学部卒業試験に合格できず退校となった。しかし、本多庸一の計らいで伝道の仮免状をもらって北海道八雲に派遣された。そして千島の択捉島(えとろふとう)へ行く。ここで伝道生活中の明治二十七年七月、活躍が認められて按手礼を受けて正式の聖職者となり、八月に上級藩士小館家の娘かつ子と結婚した。かつ子は弘前女学校で教え、さらに横浜の女子神学校で学び、弘前教会で働いていた。択捉の生活は厳しく、重治は生まれて間もない長男を失い、妻かつ子も重態となったため秋田県大館へ転勤した。ここで二男羽後(うご)を得た。明治二十九年十二月シカゴのムーディ聖書学院を目指して渡米した。資金は妻の援助と借金だった。十二月の寒空に外套も着ていない重治を見て、本多庸一は自分の着ていた外套を脱いで渡した。
 サンフランシスコではメソジスト教会のハリス監督が温かい手を差し延べ、カリフォルニアの日本人伝道の手助けを要請した。ハリスは内村鑑三、新渡戸稲造ら札幌農学校の生徒に洗礼を授けていた。しかし、重治は辞退し、労働して資金を稼がねばならぬムーディ聖書学院に入学した。ドゥワイト・ムーディ(一八三七-九九)はボストンの靴店の売り子だったが、十八歳で回心、シカゴで伝道生活に入り、一八八六年聖書学院を開き、多くの伝道者を育てた。ここのエピスコパル教会はメソジスト系で、毎週金曜日にホーリネス(聖潔(きよめ))を説く集会が開かれ、重治も出席した。この教会でカウマン夫妻と巡り合った。夫妻は重治をボイントン博士の聖潔を説く集会に案内した。夫妻は重治を経済的に援助した。ここでの勉強で、重治は、真のキリスト者の能力は聖潔にあることを自覚した。明治三十年十一月二十二日、インドの伝道者V・D・ダヴィッドが学院で集会を開いたが、そのときに重治は潔(きよ)められた。翌年ムーディ聖書学院を卒業した。ムーディは彼に聖句「エホバは日なり盾なり」を餞別に与えた。帰国の途中、ロンドンに上陸した翌日大宰相グラッドストーンが死去し、その葬儀に参列したが、重治は彼を追慕し、記念に求めた写真は長く重治の部屋に飾られた。重治はこの帰国の時、大西洋では牛の世話役、インド洋ではボーイとして働き、三十一年九月長崎に上陸した。当時、長崎の鎮西学院に先輩の笹森宇一郎がおり、彼の話を聞いて「中田という人はえらい人になるぞ」と人に語った。