彼は、明治四十三年教職を退いて、東奥日報社に入社していた。抱負を持っていたらしいが、大正三年南郡藤崎村の村長となり、その後私立弘前女学校や福島県立中学校の教員となり、そのためいたずらに時間と費用が重なって市会で問題となった。大正八年十一月廿九日、議会と市は編纂事務検査を行い、十二月四日市会が開かれた。この調査による小野士格の編纂内容は、委員会の評価によると次のとおりである。
第一篇(津軽郡)第一章ヨリ第五章ニ亘リ稍々(やや)応用シ得ベキ材料蒐集シアリ
第二篇(弘前)第一章「位置及地勢」ハ山田定良ノ著書ヲ参考トシテ編纂スル積リナリト答ヘ、特ニ蒐集シタル材料ナシ 第二章「築城」ハ漠然タル抄録数冊中ニ散見シアリテ一括セス 第三章「城廓ノ構造」モ前同断ニシテ 第四章ヨリ第二十七章ニ至ル大部分ハ概ネ未完成ニシテ信頼スルニ足ルベキ材料ハ寥々タリ
第三篇(市制施行前)第一章ハ材料完成シアルモ、第二章「議事機関」ハ未完成ナリ
第四編(市制施行後)第一章ヨリ第六章ニ亘ル三十節ハ其間若干ノ材料アルモ大部分ハ未着手ノ状態ニアリ
以上ハ単ニ蒐集シタル材料ノ検査ノミニテモ斯ノ如キ有様ナレバ若シ夫レ市史編纂ノ本事業ニ至リテハ未タ半ページダニ着手シ居ラザルナリ
七ヵ年かけ、二七〇〇円も予算をつけてのこのありさま、市史編纂を引き受けながら、なお会社員、村長、県内外の中等学校教員となっている小野士格の無責任さに、さすが大様な弘前人も「委員並ニ立会ノ正副議長(議長丸瀬正果)ヨリ交々其無責任ヲ痛烈ニ詰問スル所アリシガ唯「申訳ガアリマセン 私ノ責任上是非トモ完成致シタキ決心ナルモ近来病気ノ為メ身体意ナラズ 此分ニテハ何時迄ト確然トハ申上ケ兼ヌル」ト答フル有様ニテ殆ンド捕捉スル所ナシ」とあきれるしかなかった。