竹内兼七について

551 ~ 552 / 689ページ
竹内兼七は、明治十五年、弘前市東長町の質屋に生まれ、昭和三十二年七十七歳で没した。上京して早稲田大学に学び、明治三十六年渡米、カリフォルニアのブドウ園で働いた。カリフォルニアでは日本人社会主義者と知り会い、特に赤羽一(厳穴)と親しかった。
 日露開戦直前に戦費への寄付金を持って帰国した。三十八年九月、ポーツマス条約反対の日比谷焼打事件の際に、警視庁に連行されたが逃亡し、弘前へ帰った。三十九年四月、幸徳秋水や西川二郎らの機関誌『』の発行元・凡人社に金一〇円をカンパした。これは、前月の電車賃値上げ反対市民大会での犠牲者見舞いカンパである。そして笹森修一らと弘前に「社会主義研究会」(はじめ「渋茶会」)を結成、次いで、九月には「弘前労働協会」に発展させ、社会主義思想の研究と宣伝に当たった。竹内は、西川と友人だったため、獄中の西川を見舞い、月刊『』を旬刊にする資金提供を申し出た。話は、やがて幸徳秋水堺枯川らとともに、世界中どこもできなかった日刊の社会主義新聞平民新聞』発行へ進んでいった。

写真148 竹内兼七

 竹内は、築地の芝居茶屋一戸を買い取り、二階を編集室、階下を営業部と印刷部に充てた。竹内は別に大久保に居を構えた。この際竹内の出資金は七〇〇〇円に及んだと片山潜は言う。明治四十年一月十五日、華々しく第一号を発行した。発行部数一万三〇〇〇部、一部一銭、大新聞社並みだった。幸徳、堺ら二一人の同志は平民新聞社の有給社員になった。このことは無給覚悟の竹内にとって釈然としなかった。以前の第一次『平民新聞』のときは全員無給であった。竹内は、幸徳や堺(殊に堺)との間に、新聞社創立の相談中に衝突し、西川が見かねて竹内のために弁ずることもあり、新聞は好評だったが、竹内は一月末には出社しなくなった。しかし、実質社主たる彼の立場は変わらず、同年四月十四日、第七五号をもって廃刊した後の赤字返済は、幸徳と堺が社外に転じたため、彼一人で引き受け、結局この新聞のため一万円余の巨額出費となった。

写真149 日刊『平民新聞』発刊記念撮影