大正八年二月、早稲田大学に学生思想団体として
民人同盟が生まれた。
大山郁夫教授らが指導し、三本木町(現十和田市)出身の
和田巖が中心で、のちに
日本社会党で活躍した
浅沼稲次郎・
三宅正一らが加わった。和田らはやがて
北沢新次郎教授を指導者として
民人同盟を脱退、
建設者同盟を創立した。
建設者同盟の中心は
和田巖(明治三十一年生)であったので、在京の
岩淵謙二郎(法大)、
西村菊二郎(中大)、
武内五郎(早大)が参加、弘前中学出身で東洋大学に籍を置いた創設期
日本共産党の幹部斎藤久雄、その後輩で、弘前中学を退学して池袋にある
工業学校で学んでいた
堀江彦蔵も接近した。和田は、岡山県で起きた藤田農場争議の応援で
腸チフスにかかり、
大正十二年二月急死したが、まだ組織のない
農民運動に目をつけた功績は高く評価されている。岩淵は西津軽郡車力村(現つがる市)で、西村は県南で、武内は新潟で
農民運動を指導して遺志を受け継いだ。
写真153 建設者同盟における青森県の同人たち