大戦景気と弘前市

571 ~ 572 / 689ページ
大正二年大凶作」で青森県は甚大な被害を受けた。弘前市は肥沃な津軽平野のなかにあり、やませの影響も少なく、稲作栽培に適していた。気候的には恵まれていたといってよいだろう。そのため青森県のなかにあって凶作の影響が最も少ない地方だった。それでも「大正二年大凶作」の被害は深刻だった。ゆえに大戦がもたらした景気の向上に対して、弘前市民も青森県民も他府県の人々以上に安堵し喜んだに違いない。
 青森県当局は大正四年六月一日、一時の好況に慣れて奢侈(しゃし)に耽(ふけ)れば、将来を危うくするとして県民を戒める諭告を発した。周知のように大戦景気は大戦成り金を生み出し、放漫経営に陥る企業も続出させた。それが戦後恐慌とともに一転して不景気をもたらす引き金になった。それに関東大震災という天災が加わり、昭和恐慌の遠因となっていくのである。
 連合国側について参戦した日本は大戦に勝利し、ドイツ領の占領を半ば火事場泥棒的な立場から獲得した。こうした日本の動向は、末端の兵士たちにも強い意識を植え付けた。戦勝がもたらした開放感や安堵感、自信といったものは、大戦景気に沸く人々と共通する要素をもっていた。そのため青森連隊区では兵士や在郷軍人、将校にまでも軍紀弛緩を抑制するよう訓示を与えている。これは後に軍縮時代を迎えた際に、軍人に対する人々の批判を招く要因にもなったのである。