わが国における養蚕業は明治期の輸出産業の花形であったが、青森県においては米とりんごの生産額と比較すると微々たるものであり、主に上北郡・三戸郡の南部地域で取り組まれていた。それゆえ、中津軽郡においても養蚕業の振興が課題となっていた。
個々の農家で副業的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸業を目指す動きも出ており、大正八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社が清水村富田(現弘前市)に設立された。業務は生糸と蚕種の製造販売、桑苗の製造販売、蚕糸業にかかわる付帯業務など、広範囲の事業を行った。会社の資本総額は二〇万円で、一株五〇円・四〇〇〇株を募った。この会社の筆頭株主(社長)は福島藤助(ふくしまとうすけ)(明治四-大正一四 一八七一-一九二五)である。福島は、大正十一年(一九二二)に福島醸造株式会社を創設した弘前の実業家で、醸造のほかにも多数の異業種を経営した。陸奥製糸は生糸を足利などの主産地に送り、「弘前銘仙」を委託生産した。同会社には、弘前市のみならず、中・南津軽郡の投資家・農家を中心に県内の実業家、有力者が投資しており、他の高額株主は対馬忠郷(船沢村・現弘前市)、成田匡之進(南津軽郡五郷村・現青森市浪岡)、鳴海廉之助(西津軽郡車力村・現つがる市)で、合計二四三人が株主となっている(「陸奥製糸株式会社株式の姓名表」、資料近・現代1No.六三四)。しかし、昭和期に入り、不況とともに力を失っていった。
大正五年(一九一六)には大日本蚕糸会青森支会が設立され、県内の養蚕業の振興に努めた。しかし、大正九年(一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、中津軽郡一八五戸で、これは県内全農家数(一二万一四九二戸)のうち、わずか五%前後を占める数字でしかなかった(大日本蚕糸会青森支会『青森県養蚕之栞』、一九二一年)。