明治末期から大正初期にかけて、弘前市の主な町内には青年会や青年団が、続々と結成されるようになった。そしてそれらをまとめて、市青年団を結成しようとする動きも出てきた。これを主唱したのは益子恵之助である。益子は市内笹森町の人、明治二十五年渡米留学して神学を学んで帰り、母校東奥義塾で教壇に立ったが、転出して公立中学校長を歴任し、その後引退、弘前に帰っていた。
益子の周旋によって市内各町の青年会や青年団が集まり、大正三年(一九一四)八月十四日養生幼稚園を会場に、青森県青年団弘前支部の発会式が行われた。この時点で青森県青年団の実体は存在していなかった。それでいて、あえて「弘前支部」を名乗ったのは、益子ほか関係者のねらいのためであった。まず弘前支部を結成し、それが中心となって全県的な県青年団を結成しようというねらいである。この弘前支部の呼びかけで、この年十二月七日、当時蔵主町角にあった弘前市公会堂に県内各青年団体が集まり、青森県青年団第一回総会が開催された。名称は総会であったが、県青年団の結成式を兼ねたものであり、これによって全県的な青年団組織が形式上成立をみることになった。この総会で益子恵之助は県青年団長に選ばれ、続いて二ヵ年その地位にあって県内の青年団体をまとめるのに貢献するところが多かった。
このころの青年団体は、名前を青年に借りながら、その実、町の壮年有志を会員とし、会員相互の団結や親睦を図りながら地域の発展や向上を目的とし、その実態は勤労青少年の自主的な青年団体とは、かけ離れたものであった。したがってこの時点の、青年の名を冠した団体に対して、四十歳前後の年輩者の集まりを「青年団」と呼ぶことができるかという批判はしばしば投げかけられていた。大正四年、内務・文部両省が勤労青少年を対象とした『青年会結成のすすめ』を出すまで、壮年を主としたこれら私設の青年団体が市内に多く見られたが、それは「社会教化」の性格を多分に持った民間団体であったといってよい。