藤田育英社の設立

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大正七年(一九一八)十二月、弘前出身の実業家藤田謙一は私財を投じて、藤田育英社を設立した。藤田育英社規則第二条に「本社ハ人材ヲ養成シ、科学ノ研究発明ヲ助長シ、社会文化ノ進運ニ資スルヲ目的トス」とあるように、藤田育英社は不遇な英才を訓育して世に出そうとする育英事業であった。青少年時代、学費が乏しく苦学した体験をもつ藤田は、才能がありながら学費がないため進学できない青年たちに深い同情を寄せていたが、それが育英事業の動機となったのである。

写真194 藤田謙一

 育英社規則第三条に「本社ハ事務所ヲ東京市ニ置ク、但、必要ニ応ジ便宜ノ地ニ支社ヲ設クルコトヲ得」とあるが、藤田育英社は発足と同時に、弘前支社を設け社生採用規則を定めた。規則の一には社生採用の条件が挙げられているが、その四に「家庭ニ於テ現在学資ノ支出ニ堪ヘザル状態ニアルモノ」とあって、進学を希望しながら家が貧しいため、道を閉ざされた生徒たちに明を与えた。
 その当時、奨学資金制度など絶無の時代に、藤田育英社は東京府荏原郡大井町(現東京都品川)蛇窪に社屋を建て、社生を収容して勉学から生活まで面倒をみた。藤田育英社の社生たちは社誌『藤園』を毎年発刊し、各自の勉学の励みや友情の交流に役立てた。藤田育英社の社生となって学業を卒(お)えたものは一〇〇人以上を数えた。