大正六年五月二十七日、弘前一の芝居小屋・柾木座が突如出火し、全焼した。この日は奇しくも明治十三年に同座から起こった火事が付近一帯へ延焼した大火の記念日に当たり、しかも市役所や消防団、警察署が肝いりした「火災には気をつけよう」という啓発演劇の上演中のことだった。柾木座焼失後、元寺町の有力者たちにより町内繁栄策として劇場再興が計画され、酒造界の風雲児・福島藤助が社長に選ばれた。時代の進展にふさわしい大建築にしようということになり、舞台は中央劇団でも有名な長谷川勘兵衛に設計を依頼した。旧柾木座に比べて間口一間・奥行二間広く、総坪数二六〇坪で、天井まで二七尺、客席も東京風で斬新な趣向であった。大正八年八月、名称も「弘前座」と改めた常設映画館兼芝居小屋が落成した。映画館としては、弘前で三番目である。なお、弘前座では、戦前まで五月二十七日を「魔の日」と呼び、どんな大入りの映画でも、人気スターの実演でも、一日完全休館した。
弘前座は、活動写真も上映したが、柾木座の伝統を継ぎ、しかも東北有数の舞台構造を誇る劇場として多彩な興行を続け、市民の娯楽の殿堂として君臨した。こけら落としは、東京歌舞伎の大看板・松本幸四郎一行であり、当時としては空前絶後の地方公演であった。その後も、女義太夫「竹本綾之助一座」の来演、芸術座『生きる屍』、同『復活』(松井須磨子主演)、浅草歌劇のオペラ座公演等々、当時のわが国劇団の活発な情勢を反映して、新旧さまざま入り混じり、すこぶる多彩であった。