新鍛冶町の方円館

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第二次世界大戦以前の鍛冶町・新鍛冶町・桶屋町界隈(わい)は、鉄工所を中心とした町工場や、桶屋などの家内工業が軒を連ねる職人町であった。一日の労働で疲れた職人たちにとっての楽しみといえば、寄席で聞く浪曲、義太夫、演説、手品など。川留亭はそうした職人たちの客層で成り立っていたのだが、その職人たちもやがて映画の魅力に引きつけられて慈善館などへ行ってしまうようになり、すっかり客足が遠のいてしまった。大正八年、川留亭は経営者が代わって方円館と改名し、相変わらず浪曲、義太夫等で伝統を守っていたが、大正十年七月には時勢に応じて、ついに活動常設方円館として再発足したのである。

写真202 方円館

 方円館では、映画の幕間に短い演芸ものを挟むという「映画と実演」の二本立て興行を打ち出し、その職人町らしい独特の興行方法が名物であった。方円館には、中田アレダオンの愛称で呼ばれる名物弁士もいた。例えばキス・シーンの場面になると「彼と彼女はアレダオン」といったぐあいに、津軽弁の「アレダオン」の連発で観客の爆笑を誘うのである。中田アレダオンは、昼は飴売りをしていて、八坂神社(通称大円寺)の境内などで子供たちに映画の話を面白おかしく聞かせていたという。当時は、子供たちの遊びの世界にも映画の影響が反映され、竹や棒を兵児(へこ)帯に挟んでは役者気取りのチャンバラごっこや忍者ごっこ、その他さまざまな真似事をしては遊んでいたのである。
 大正十四年八月、幕を下ろした寄席米山亭に近い南横町に、錦館が開館した。しかし、わずか二年足らずの昭和二年に、北横町の遊郭から出火した大火で焼失している。