津軽塗に劣らず数百年の歴史を有する
弘前手織は、元禄七年(一六九四)、
津軽塗と同様に四代藩主信政が現在の弘前市紺屋町に製糸場および織座をつくり、京都から職人を招いて絹布を織らせたことが起源とされる。
弘前手織が商品として一般に販売されたのは幕末の頃からで、金木屋
武田甚左衛門が桐生から織布職人を招いて製糸場と機織場とを開設してからである。その後、明治二十九年(一八九六)頃に弘前市の
鹿内豊吉が足踏式織布機を発明したことで、本市の織布機業家はこの足踏式を使用するようになった。大正九年(一九二〇)において、本市における織物会社は
東北織物株式会社、
竹内機業株式会社、
津軽織物株式会社などがあり、盛況を呈していたが、
第一次世界大戦後の
反動恐慌のため経営不振に陥った。そのための打開策として企業
合併が必要となり、大正十四年八月、東北織物が竹内機業と
近藤織物を吸収
合併して不況を乗り切るのである。東北織物会社は、昭和三年(一九二八)に綿ネル(平織りまたは綾織りにして、両面に起毛した柔らかな紡毛織物)の製作を企画し、県
工業試験場の技術援助のもとに小幅英ネルを生産したところ、好評を博したため県外各地に販路を開拓していった。九年には、設備を拡張し、大幅織機二〇台を増設して、大幅ネルを製造するようになった。十一年には同業組合の共同設備として起毛工場を中津軽郡藤代村字和田(現弘前市)に設立し、
工業試験場に依存することなく自前で起毛およびその他の仕上げを行うようになった。次第に
弘前手織は丈夫であるとの名声が高まり、ネルにしても「テオリネル」と称して販売した。値段はやや高かったが品質は良好で、昭和九年頃、三越
デパートの機関誌において、全国まれに見る優秀品として折り紙をつけられるほどになった。戦時体制に入ると生産制限や統制が強化され、十四年になると小幅織機は全休となり、大幅織機は東洋紡の下請け生産などで辛うじて生産を続けた。十八年、国家の企業統制により、本市における織物工場は東北織物と葛西右平の二工場のみとなり、その他の工場は転廃業をやむなきに至った(柳川昇他『弘前市における商
工業の現状と将来』弘前市、一九五九年)。
写真35 東北織物工場
写真36 葛西織物工場