銀行合併政策

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金融恐慌が吹き荒れる昭和二年(一九二七)三月に公布された銀行法(施行は翌年一月)は、銀行経営健全化のため、法定最低資本金を一〇〇万円(ただし、東京・大阪に本支店を有するものは二〇〇万円、人口一万人以下の地方では五〇万円)として、この資格を満たさない「無資格銀行」は整理されることになった。その猶予期間は施行後五年、すなわち昭和七年末であり、その間、銀行合併が進められていった。
 昭和十一年、広田内閣の馬場蔵相は、預金争奪による資金コストを引き下げること、一行当たりの資金量を増大し、低利の国債の銀行受け入れを促進すること、さらに金融機関に対する統制・指導などの監督権を行使する必要から「一県一行主義」の政策を打ち出し、戦時金融統制の一環として、銀行合併政策を強力に進めていった。そして、昭和十七年に制定された金融事業整備令は、これまで勧奨あるいは指導の域以上に出られなかった政府の措置に、合併政策の法的根拠を与え、一県一行主義は政府の強権により実行に移されていった。しかし、地方銀行自体にも、戦時経済の影響による地方的融資対象の縮減と低利公債の強制的保有にもとづく経営状態の悪化が、合併政策に応ぜざるをえない事情としてあった(朝倉孝吉『新編日本金融史』日本経済評論社、一九八八年および青森銀行史編纂室『青森銀行史』青森銀行、一九六八年)。