昭和二年二月、弘前市学務課では市内各小学校のスキー台数を調査したが、児童の約三分の一がスキーを所有していた。これによって当時スキーがいかに普及していたかが知られよう。もっともそのスキーというのは、今日児童が使用している山岳滑降用の立派なものでなく、ゴム長靴に革の締め具を巻きつける平地滑走用の粗末なものであった。
同年、弘前スキー倶楽部が弘前公園にスキー場を開設した。公園スキー場は本丸入口の鶴ノ松、亀ノ石の前の斜面を濠に向かって滑降するもので、氷の張った濠に積もった雪は雪原となってかなりの広さがあり、児童にとって絶好のゲレンデとなった。また、鶴ノ松の左側で下乗橋突き当たりの断崖は急斜面と呼ばれ、この滑降には相当の技術と胆力を必要としたが、五、六年の児童は急斜面を直滑降することを名誉とした。また、公園内を一周するコースは雪上競技場となり、市役所が夜間に電灯を点灯したので、夜七時ごろまで滑ることができた。
同じ年の二月十二日、弘前スキー倶楽部主催、第一回弘前少年スキー大会が公園スキー場で開催された。大会には市内各小学校が参加、熱戦を展開したが、このころから各小学校のスキー指導も、ようやく盛んになった。競技種目は距離競走が主で、一年・二年生は二〇〇メートル、三年生は六〇〇メートル、四年・五年生は一キロメートル、六年生は二キロメートル、四キロメートルリレー、急斜面直滑降(五・六年生)となっており、女子の種目は一年生の二〇〇メートルだけで、二年生以上の種目はなかった。