三年八月、朝陽小学校チームは連続三回全国大会に出場、白取校長と乳井訓導は野球部児童を率いて京都に出かけた。この年の全国大会は京都市岡崎球場で開かれたのである。八月八日大阪代表の姫島小学校と対戦、空しく敗れて翌九日帰途についた。午後七時京都駅を出発して一時間、途中、奈良駅の隣、関西線木津駅で乗り換えのとき、白取校長は児童を促したのち降車しようとしたが、突然列車が進行、そのため校長は転倒し、列車に胸を挟まれて重傷を負った。直ちに奈良市内の病院に運び手当てを加えたが、十日午前二時四十五分逝去した。
写真51 大正11年少年野球大会での白取校長(左端)
白取校長は、青森県師範学校を明治三十四年三月に卒業、同年四月から朝陽小学校訓導、大正十三年十二月同校校長となり、昭和三年八月十日死去まで実に二八年間、朝陽校のみに勤務した。校長は部内の信望厚く、児童からは慈父のごとく慕われたといい、その野球は温和な性格に似ず積極戦法を好み、死の直前まで「打ってしまえ!」とうわごとで応援していたという。
白取校長の葬儀は学校葬として行われ、会葬者は二千余人、弔詞二六通、弔旗一二旒(りゅう)、花籠花輪二五対に及んだ。その死がいかに惜しまれたか知ることができよう。