白取朝陽小学校長の奇禍

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これまで弘前市少年野球大会で最下位を低迷していた朝陽小学校野球部は、大正十五年初めて北奥羽代表として全国大会に出場、大阪甲子園球場で長崎チームと対戦し、八対三で敗れた。これを契機に、以後、朝陽小学校野球部は昭和二年、三年、五年と実に四回にわたって全国大会に出場、東北はもちろん全国にその名を知られたのである。このように朝陽小学校野球部が黄金時代を迎えるようになったのは、当時の白取清一校長の尽力によるものであった。白取は野球部コーチに同校先輩の木村長四郎を迎え、さらに二年三月青森県師範学校新卒の乳井春雄訓導を招聘(へい)し、野球部強化の万善の策をとった。そのうえ、校長みずから練習場に出て、炎天のもと日々選手を激励した。
 三年八月、朝陽小学校チームは連続三回全国大会に出場、白取校長と乳井訓導は野球部児童を率いて京都に出かけた。この年の全国大会は京都市岡崎球場で開かれたのである。八月八日大阪代表の姫島小学校と対戦、空しく敗れて翌九日帰途についた。午後七時京都駅を出発して一時間、途中、奈良駅の隣、関西線木津駅で乗り換えのとき、白取校長は児童を促したのち降車しようとしたが、突然列車が進行、そのため校長は転倒し、列車に胸を挟まれて重傷を負った。直ちに奈良市内の病院に運び手当てを加えたが、十日午前二時四十五分逝去した。

写真51 大正11年少年野球大会での白取校長(左端)

 白取校長は、青森県師範学校を明治三十四年三月に卒業、同年四月から朝陽小学校訓導、大正十三年十二月同校校長となり、昭和三年八月十日死去まで実に二八年間、朝陽校のみに勤務した。校長は部内の信望厚く、児童からは慈父のごとく慕われたといい、その野球は温和な性格に似ず積極戦法を好み、死の直前まで「打ってしまえ!」とうわごとで応援していたという。
 白取校長の葬儀は学校葬として行われ、会葬者は二千余人、弔詞二六通、弔旗一二旒(りゅう)、花籠花輪二五対に及んだ。その死がいかに惜しまれたか知ることができよう。