富田小学校は当時中津軽郡清水村の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園の敷地に建てられていた。この地区は、弘前市に隣接して経済的にも弘前同様だったため、昭和三年(一九二八)四月、清水村から分離して弘前市に合併した。したがって富田小学校も市に移管された。
ところが、合併した三年の十一月十八日午前二時十分、富田小学校から出火、同校を焼失した。出火の原因について種々風説があったが、結局、同校使丁が学校見廻りのとき、薪小屋に提灯を置き忘れたためということになった。しかし、出火時に同校当直室で教員たちが飲酒雑談して、出火に全く気づかず大事に至ったという。それを重視した弘前市長松下賢之進は、十一月二十七日、今後校舎内において点灯後酒類を禁止する旨、各校に通知した。四月十八日の「富田の大火」で第一・第二大成の二校を焼き、今度は富田小学校と一年間に三校を焼失したのでは、市長が立腹するのも当然であろう。
富田小学校は、焼け残った体操場を仕切って教室として二部授業を続け、四年一月四学級を第一大成小学校に収容、ここでも二部授業を行ったが、同年四月一日をもって廃校と決定した。児童は第一大成小学校、第二大成小学校、朝陽小学校の三校に分散、編入学させた。