弘前市及び付近村落に疎開したのは、東京都渋谷区の各国民学校児童たち二二一七人で、七日と十二日の二回に分かれて到着した。七日午前十時四分、疎開児童第一陣が弘前駅に着いたとき、市内各国民学校から出迎えが出たが、代表して歓迎の辞を述べたのは和徳国民学校六学年荘司道夫である。朝陽国民学校と第一大成国民学校を使用したのは渋谷区富谷国民学校で、新寺町貞昌寺を本部兼宿舎とした。和徳国民学校を使用したのは渋谷区本町国民学校で本部宿舎は西茂森海蔵寺であった。疎開児童たちの弘前での生活はかなり不自由なものであった。児童たちは慣れないりんご袋貼りを行ったり、臨時休校して野草を採取したりと、不自由な食生活の緩和に努めている。八月十五日の終戦をいちばん喜んだのは、東京から集団疎開の児童たちではないだろうか。彼らの帰京は十月二十日と決定し、同日午後七時弘前発の列車で出発した。駅頭には市内国民学校の校長、職員、六学年児童有志が集まり、これを歓送した。集団疎開の国民学校では、世話になったお礼として若干のお金を当該国民学校に贈ったが、船沢国民学校に疎開した青山学院初等部は大時計を贈り、その時計は現在でも時を刻んでいる。
写真60 三省国民学校に疎開中の東京都渋谷区広尾国民学校の学童たち