外人宣教師ミス・バイラー、ミス・カーティスらは日米開戦と同時に帰国している。十八年になると、学徒の戦時勤労動員はさらに強化されて、一年間の三分の一が動員の期間となった。翌年には女子挺身隊を組織し、開墾に従事したり、市内の工場へ動員される日々となった。
写真68 弘前女学校校舎(昭和4年落成)
二十年に入ると授業は全く休止状態になった。四月に五年生四八人がまず大湊の海軍要港部に出動、五月には四年生一一九人が続いた。彼女らは看護婦として、または砲弾磨きとして汗を流した。しかし、学校では、下級生の授業や朝の礼拝は絶えることはなかったという。
この二十年には、危うく校舎が取り壊されるという危機に直面した。坂本町の前の道路の道幅が拡張されることになり、強制疎開の範囲内でもあったので、校舎の存続が危ぶまれた。陳情も画策していたのが、終戦で事なきを得た。終戦前日の八月十四日のことである。