戦争と弘前女学校

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昭和十二年に入ると、時局はますます風雲急を告げ、非常時色が濃くなった。校庭は召集兵の集会の場所として利用され、外人宣教師に対する軍部の監視も厳しさを増し、クリスマスも中止することに決まった。この年、弘前女学校は創立五十周年を迎え、十二月二十四日から四日間、盛大な式典や行事を行った。しかし、戦局の拡大とともに勤労奉仕が正課として実施されるようになり、応召軍人や遺家族への家事手伝いなども協力項目となった。ほかにも護国神社の参拝、戦地への慰問文の発送、傷病兵慰安会などをしている。冬休み中には、四、五年生は軍隊の袴下の縫製もした。
 外人宣教師ミス・バイラー、ミス・カーティスらは日米開戦と同時に帰国している。十八年になると、学徒の戦時勤労動員はさらに強化されて、一年間の三分の一が動員の期間となった。翌年には女子挺身隊を組織し、開墾に従事したり、市内の工場へ動員される日々となった。

写真68 弘前女学校校舎(昭和4年落成)

 二十年に入ると授業は全く休止状態になった。四月に五年生四八人がまず大湊の海軍要港部に出動、五月には四年生一一九人が続いた。彼女らは看護婦として、または砲弾磨きとして汗を流した。しかし、学校では、下級生の授業や朝の礼拝は絶えることはなかったという。
 この二十年には、危うく校舎が取り壊されるという危機に直面した。坂本町の前の道路の道幅が拡張されることになり、強制疎開の範囲内でもあったので、校舎の存続が危ぶまれた。陳情も画策していたのが、終戦で事なきを得た。終戦前日の八月十四日のことである。