官立弘前高等学校赤化事件

208 ~ 210 / 965ページ
いわゆる「赤い太鼓事件」については、『虚空に羽ばたき-弘前高等学校五十年史-』に寄稿した成田俊太郎氏(第一〇回生)の手記「「赤い太鼓事件」に憶う」に依拠したい。
 大正末年ごろから弘前高等学校には「弘高社会科学研究会」(弘高社研)が組織された。昭和三年の三・一五共産党事件後、解散を命ぜられて非合法化されたが、旧社研メンバーは新聞雑誌部をつくり、映画演劇音楽、文芸などの文化活動を通じて生徒大衆に働きかけていた。
 昭和四年二月十九日には、当時の鈴木信太郎校長の公金費消事件をきっかけに生徒による五日間のストライキが決行された。「弘前高等学校盟休生一同の声明書」が出され、この活動の中心的役割をなしたのが新聞雑誌部員であり、実質的には社研活動の変形として生徒大衆を組織していたものであった。
 しかし、このストライキを契機として、学内における思想・言論・表現の自由はしだいに圧迫され、新聞雑誌部は学校当局の厳しい検閲を受けるようになったのである。
私ら八年組は、昭和七年六月、弘高「赤い太鼓」事件として、全協・共産青年同盟などの団体と連繋し、学内及び弘前市内に不穏ビラを貼ったということに端を発して、先輩[   ]と共に検挙・勾留され、[   ]、[   ]、[   ]、私の四名は、中心人物ということで起訴保留処分を受け、八月、弘高は退学となった。当時、検挙・取調べを受けたものは三〇名ぐらいであったと記憶している。(中略)昭和七年と云えば「非常時共産党」の時代である。三・一五事件、四・一六事件と共産党員大量検挙についで昭和五年には武装共産党委員長田中清玄の逮捕とつづき、非合法下にあった日本共産党に対するあいつぐ弾圧で党はノイローゼ気味になっていた。私ら学生は、党の戦略・戦術については知るよしもないが、党は蒼白きインテリは相手にせず、労働者の前衛党として鉄の規律を誇ってはいたものの、党再建のためには、層の厚い広汎なインテリ、学生層に目を向け、その救援資源を求めて来たものらしい。私の体験をとおしてみても、私らは学内で非公認の社会科学研究会を組織していたとはいうものの、私らは、私らなりに、RS(読書会)活動を通じて唯物論を学び、唯物史観について討論し、マルクス・レーニン主義の文献を漁っては資本主義社会の矛盾に憤りして、互に学問研究の自由をたのしんでいた、比較的まじめなグループであったと考えているが、何しろ、絶対制天皇の治下、資本主義国家の体制はこう云った学生を祖国を忘れた「赤い学生」として容れなかったものである。(中略)私ら弘高グループは、共産青年同盟の影響下で、いつの間にか、知らず知らずのうちに学内大衆斗争の指示を受けていたのかも知れない……。私らは、それぞれ資金を持ちより、上質の真っしろい西洋紙タブロイド版の両面を使用して、ガリ版刷で『赤い太鼓』と名づけた学内新聞を発行するようになった。(中略)私らの退学処分(八月二六日・私は一度も学校当局の取調べは受けた記憶がない)によって伝統(?)ある弘高社研活動は壊滅的な打撃を受けて、時代は準戦時体制に突入し、その活動は全く学内から追放されてしまった。
(前掲「赤い太鼓事件」に憶う」)


写真74 当時の授業風景