津軽のナショナリズムの源流は二つ考えられる。その第一は、ロシアの南下に対する北方警備、寛政五年(一七九三)の蝦夷地根室派兵から幕府崩壊の日まで七十余年続いた体験から形成された意識であり、第二は、藩学の底流にある山鹿学の士道精神である。この二つが、明治維新期の内外の危機状況に伊東梅軒の海防思想、古川他山の頼山陽と南宋陸遊詩愛好を生み、それが次世代の陸羯南、伊東重の明治中期のナショナリズムの鼓吹となった。
明治中期の偉大なジャーナリスト陸羯南は、少年時代、弘前下町の古川他山塾において、「風濤自靺羯南来(ふうとうまっかつのみなみよりきたる)」の詩を詠んで師に激賞され、生涯の号とした。この詩は残念ながら一行しか伝わらないが、恐らく頼山陽の「蒙古来」に範をとった詩であろう。「蒙古来」の極み「筑海の颶(ぐ)気天に連って黒し 海を蔽うて来たるものは何の賊ぞ 蒙古来たる 北より来たる」の三行を維新前後の対外危機意識でまとめたものと思う。頼山陽は羯南の師古川他山が学僕をしていた大坂の儒者篠崎小竹の親友である。また、山陽の三男で安政の大獄で刑死した三樹三郎も小竹の門に入り、弘化三年、弘前や三厩に来ている。