東亜連盟

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佐藤正三は、昭和十三年一月十日召集され、旭川歩兵第二六連隊に入営、三ヵ月後、満州の駐屯地チチハルに派遣され、直後徐州会戦に参加、その後ソ満国境の張鼓峰、さらに激戦のノモンハンで戦う。昭和十五年十月十二日召集解除となり、陸軍伍長で営門を出た。チェリーとバットを空箱と交換に買うことが、三年の間留守にした日本に接しての最初の行為であった。前年九月母が亡くなっていた。東京で南米行きを勧められたが断り、さらに東京帝大に進むことを決心した。そして日本が純正維新の道統からそれているとし、「東亜問題研究会」の設立に奔走する。不惜身命(ふしゃくしんみょう)、これが十二月三十一日の言葉であった。明けて昭和十六年一月四日、アンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』を読み、日本の現状に慄然(りつぜん)としている。日本の維新革命-東亜連盟結成こそこのフランスたらしめざる道と、次に伊東六十次郎の『東亜連盟結成編』に入った。

写真83 戦場の佐藤正三

 東亜連盟石原莞爾の唱えた日中提携の理論で、昭和十三年に公にされた。近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」を背景に、昭和十四年東亜連盟協会が発足、初め農民運動家も入り、南京政府の王兆銘もこの運動に協賛したが、やがて日中和平より世界最終戦争論の軍事学に重点が傾くと、多くの活動家が離れた。国内会員はおよそ一〇万人と言われ、太平洋戦争中は、その峻烈な戦争批判によって東条英機政権の一大敵国の観を呈した。したがって、この運動に対する弾圧は激しく、十六年には東亜連盟論の禁止、次いで「興亜同盟」による吸収が図られ、ついに十六年九月協会は解散し、東亜連盟同志会と改称して国防論を主とすることとなった。
 昭和十六年一月十四日佐藤正三は次のように記した。「閣議決定により東亜連盟論禁圧を声明。奇怪なる哉。帝国の前途愈々暗澹(たん)たり。維新の道は荊(いばら)の道」。