本県は、日本経済の中で低位な東北六県の中でもさらに経済的に最低である。昭和元年の所得金額では、青森県を一〇〇とすれば、福島一六八、山形一六三、宮城一六〇、秋田一三三、岩手一〇七だった。したがって、第一次世界大戦後から続く日本経済不振の影響は深刻だった。
しかし、農村は、長い間の地主、小作間の伝統的な支配関係が小作人の反抗を抑え、大正十三年には、全国で小作争議の起こらないところは、本県と鹿児島県であると『東奥日報』に報じられ、同年小作調停法が実施されたときも適用区域から除外され、昭和四年七月ようやく適用された。
もちろん、小作人の組合が皆無だったわけでなく、大正十三年九月には西津軽郡車力村(現つがる市)の小作人六〇人によって小作人組合が結成されており、昭和二年、一〇組合・三五四人、同三年、一六組合・五三〇人、同四年、一九組合・五九四人、同五年、二二組合・八六一人、同六年、二三組合・九八一人、同七年、四二組合・一七九七人と、年々組合数、組合員ともに増加し、昭和七、八年は戦前のピークとなっている。