連合軍の弘前進駐

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敗戦直後の行政当局の最大課題は何と言っても進駐軍対策だった。「鬼畜米英」と信じ込まされた進駐軍との接触に人々が恐怖感を抱いていたからである。昭和二十年(一九四五)九月二日、日本は降伏文書に調印した。ここに日本はアメリカを中心とする連合国に占領されることになり、それに基づいて各地に連合軍が進駐を始めた。青森県にも進駐軍が上陸し、青森市公会堂に司令部を設け、軍政をしいた。

写真99 進駐軍の司令部が置かれた青森市公会堂

 けれども実質的に連合軍は間接統治の方法をとり、県民への直接的な行政事務は日本政府に委嘱した。地方行政は政府の指示のもと、地方自治体に運営を任せられたのである。そのため連合軍は青森県に対しても、九月二十五日「青森県知事は県庁に止」つて、歩兵第八一師団司令官の「監督の下に其の権限を施行すべきものと」し、「県行政竝司法の各分野は其の機能を続行すべきものとす」と命令を下している(連合軍の青森進駐に関する詳細な資料は、江藤淳『占領史録(下)』講談社学術文庫、一九九五年を参照)。
 進駐軍は弘前市にもやってきた。九月二十六日、連合国軍部隊は青森駅から奥羽本線を臨時列車で弘前駅に向かい、午前十時三十五分、弘前駅に到着した六五人を先頭に、四回にわたって約三九〇〇人の将兵が弘前市に進駐した。市では早朝から街路を清掃し、市民は外出を見合わせ、街路には警察官が物々しく警備についた。異様な雰囲気となったが、市民全体は極めて冷静だった。しかしこれには事前に相応の準備があったからである(進駐軍に対する民心動向については、中園裕「敗戦前後の世相と民心の動向」『国史研究』第一〇八号、二〇〇〇年三月を参照)。

写真100 弘前市への進駐