突如の敗戦は国内の人々だけでなく、戦地で死闘を繰り返していた部隊にとっても寝耳に水だった。戦闘中の部隊が「玉音放送」を聴取できなかった事例もあった。第八師団自体は太平洋方面の戦局が絶望的となった昭和十九年(一九四四)七月、フィリピンへの転出を命じられている。管下にも多数の部隊が編制された。とくに戦争末期には国民の根こそぎ動員の結果を物語るように、多数の部隊が編制されている。弘前を編制地とする部隊では、もっとも古い歩兵第三一連隊がある。三一連隊は敗戦時にはルソン島南部で死闘を繰り広げていた。すでに部隊自体は困苦と欠乏で限界に達していた。昭和十四年に編制された歩兵第二二二連隊(弘前)は、昭和十八年六月二十八日、連隊長以下が全員玉砕となる悲劇を生んでいる。
他の師団と同様、第八師団管下の各部隊も中国や南方方面に派遣され、悲惨な状況下で敗戦を迎えている。しかし国内に司令部を置き、本土決戦部隊となるため待機していた部隊も多数あった。いずれも敗戦直前の編制であり、人員・武器・食糧など、どれもが不足がちで、決して精鋭部隊とはいえなかった。それでもこれらの部隊に動員されていた人々は、本土決戦が回避され戦争が終結したため生き延びることができたのである。
周知のようにGHQは日本軍に対し徹底した武装解除を実施した。当初は大混乱を来すと見られていた日本軍も、大元帥たる天皇の命令により驚くほど素早く武装解除が進んだ。むろん第八師団管下の各部隊も同様である。天皇の軍隊として「皇軍」と呼ばれ、戦時中は勢力絶大だった軍隊も、敗戦とともに武装解除を受けた。師団・連隊も解散させられ、天皇の軍隊は驚くほどあっけなく解体したのである。