外地引揚者への援護策

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生と死をさまよいながら大陸や南方から引き揚げ、復員してきた人々の困窮ぶりは、全国各地で頻繁に見られた。生活に困った人々による犯罪が増え、社会的な問題が生じていた。弘前市でも事情は同じだった。引揚同胞連盟弘前支部は、昭和二十一年(一九四六)十月十日、弘前市日本劇場(南横町)で緊急大会を開催し、デモ行進をして市役所に押しかけ、岩淵市長や市会に決議文を提出した。決議文には引揚者は「戦争犠牲者中最も悲惨なる者」であり、「援護対策は公的に於ては当然の義務であり人道上の緊急実施事項である」とあった。外地引揚者の生活困窮問題は、戦争が国家のために遂行された以上、戦争被害への補償や救済が公的に施されるべきだとの意識を国民に植え付けた。こうした観点から福祉行政という概念が生じ、地方自治体の重要施策として位置づけられてくるのである。
国の政策を受けて、弘前市でも引揚者の生活援護や住宅供給などを行っている。なかでも弘前市引揚者接待所の設置は、引揚対策として重要な役割を果たした。家族が離散し衣食住に不自由な引揚者にとって、接待所のような施設は必要不可欠だったに違いない。このほかにも多数の復員兵引揚者が市街に溢れたため、浮浪者が激増し市当局の悩みの種となっていた。浮浪者の収容所としては富田町に慈光荘があった。けれども弘前市出身者だけでなく、県下各地の浮浪者が収容されたため混乱を来していた。弘前市には軍事施設が集中し広大な土地があったため、青森市をはじめとした他市町村の空襲罹災者や引揚者が多数弘前市に集まってきたのである。収容所を建設するにも、逼迫する市の財政では賄いきれなかった。そのため市当局では兵舎を急遽改造して間に合わせの引揚寮を用意している。敗戦後の混乱は一つの地域で解決する問題をはるかに越えていたのである。

写真108 「曙町」と通称された引揚寮地区