表26は、「中津軽郡の総合農協名と設立年月日」である。これによれば、農協法公布の翌年(昭和二十三年)内に大半の総合農協が設立されている。特に、農協が多数設立された自治体は千年村が八、清水村が五である一方、船沢村、和徳村など一ヵ所のところもあった。総合農協のほかに専門農協・開拓農協・特殊農協も設立されたが、小規模なものがほとんどのために、昭和三十年代にはその多くが業績不振を理由に解散した(『弘前市農協20年史』、一九八五年)。
表26 中津軽郡の総合農協名と設立月日 | ||||||||
市町村名 | 農協名 | 設立年月日 | 市町村名 | 農協名 | 設立年月日 | 市町村名 | 農協名 | 設立年月日 |
清水村 | 下湯口 | 昭和23年3月2日 | 船沢村 | 船沢村 | 昭和23年3月12日 | 駒越村 | 駒越村 | 昭和23年3月18日 |
同右 | 悪戸 | 昭和23年3月3日 | 千年村 | 清水森 | 昭和23年3月12日 | 藤代村 | 藤代村北部 | 昭和23年3月23日 |
清水村 | 小沢 | 昭和23年3月5日 | 東目屋村 | 東目屋村 | 昭和23年3月18日 | 清水村 | 清水村青柳 | 昭和23年3月23日 |
駒越村 | 駒越村民主 | 昭和23年3月24日 | 豊田村 | 豊田村 | 昭和23年4月15日 | 相馬村 | 相馬村 | 昭和23年5月13日 |
千年村 | 中野 | 昭和23年3月30日 | 同右 | 二ツ屋 | 昭和23年4月16日 | 弘前市 | 弘前市南地区 | 昭和23年5月17日 |
同右 | 千年村小栗山 | 昭和23年3月30日 | 千年村 | 松木平 | 昭和23年4月16日 | 岩木町 | 常盤野 | 昭和23年5月17日 |
藤代村 | 藤代村 | 昭和23年4月2日 | 同右 | 一野渡 | 昭和23年4月16日 | 弘前市 | 弘前市城北 | 昭和23年5月28日 |
和徳村 | 和徳村 | 昭和23年4月6日 | 岩木村 | 岩木村百沢 | 昭和23年4月22日 | 相馬村 | 湯口 | 昭和23年6月8日 |
清水村 | 清水 | 昭和23年4月7日 | 大浦村 | 大浦村 | 昭和23年4月23日 | 千年村 | 原ヶ平 | 昭和23年6月24日 |
堀越村 | 堀越村 | 昭和23年4月7日 | 豊田村 | 豊田第一 | 昭和23年4月23日 | 新和村 | 新和村青女子 | 昭和23年7月12日 |
相馬村 | 相馬村 | 昭和23年4月9日 | 同右 | 豊田第二 | 昭和23年4月23日 | 相馬村 | 藤沢 | 昭和23年7月26日 |
西目屋村 | 西目屋村 | 昭和23年4月9日 | 西目屋村 | 砂子瀬 | 昭和23年4月24日 | 裾野村 | 裾野村 | 昭和23年8月11日 |
岩木村 | 岩木村 | 昭和23年4月9日 | 新和村 | 三和 | 昭和23年4月26日 | 同右 | 裾野村大貝 | 昭和23年8月24日 |
千年村 | 狼森 | 昭和23年4月9日 | 千年村 | 大和沢 | 昭和23年4月27日 | 同右 | 鬼楢 | 昭和23年9月10日 |
藤代村 | 石渡 | 昭和23年4月15日 | 西目屋村 | 西目屋村更正 | 昭和23年4月28日 | 相馬村 | 紙漉沢 | 昭和23年9月16日 |
新和村 | 新和村 | 昭和23年4月15日 | 弘前市 | 弘前市 | 昭和23年4月28日 | 裾野村 | 裾野村十腰内 | 昭和23年10月18日 |
高杉村 | 高杉村 | 昭和23年4月15日 | 西目屋村 | 西目屋村大秋 | 昭和23年4月30日 | 弘前市 | 弘前第一 | 昭和26年4月3日 |
同右 | 独狐 | 昭和23年4月15日 | 新和村 | 笹舘 | 昭和23年5月10日 | 岩木町 | 青森県生産 | 昭和27年2月6日 |
前掲『青森県農業協同組合史』より作成 |
販売連合会は、津軽を中心に青森県販売農協連合会が、県南地方を中心に全青森県販売農協連合会が、それぞれ昭和二十三年(一九四八)に設立された。しかし、単協からの連合会委託は少なく、中津軽郡では、清水村、高杉村、堀越村などの経済的力量のある単協は、いずれも自主出荷して県外各地の青果会社と取引を行っていた。さらに、昭和二十四年のりんご景気の崩壊で、連合会委託品の大半は赤字精算に終わり、ドッジ・デフレで各種事業も不振を極め、農林漁業組合再建整備法で両販売農協連合会は昭和二十六年合併するに至った。
新生農協は、官制の農業会勢力を排し、GHQの支持する「農民の自由なる結合体」を目指す組織であるはずだったが、実際には農業会の資産を継承したことや設立当初からの経営不振の影響により、「農業会の看板の塗り替え」の批判も否定できないのが実態であった。