朝陽小学校の卒業生三三八人を収容した第四中学校は、当時の青森師範学校長・同附属小学校長の須貝清一を校長とし、同校主事の小野正文を主事として開校している。もちろん二人とも兼務という形の発令であるが、開校当時の準備協議会や、廃校となる旧高等小学校の教具や用具類の分配相談、開校まで市内各中学校長の諸打ち合わせには、小野主事が第四中学校代表として出席している。
昭和二十二年四月からの新制中学校発足により、附属中学校設置の必要を感じた師範学校では、とりあえず附属小学校(朝陽小学校)児童の進学先である第四中学校を、附属中学校としての仮用に考え、前記のような校長及び主事の発令となったものと考えられる。しかし、弘前市にも、弘前大学本部に残る当時の関係文書の中にも、第四中学校を附属中学校として委託を受け、あるいは依頼したとする正式の書類は見当らない。
昭和二十三年一月二十六日、青森師範学校長から岩淵勉市長に差し出された「貴市朝陽国民学校返還について」という文書に「一昨年来、貴市朝陽国民(ママ)学校を本校代用附属小学校として借用中でありましたが、附属小学校を本校構内に新設することになったから、前記朝陽小学校は来る三月末を以て一応返還する予定であります」とあり、「なお附属中学校(「市立第四中」の五字を朱筆で消し「附属中」と訂正)も本年度四月より本校内に新設する予定でありますから、市立第四中学校の(この八文字はあとで挿入)本校職員の兼任は、三月末を以て解消せられたい」とある。これてみる限り、第四中学校は昭和二十二年度の一年間だけ、青森師範学校仮用附属中学校の存在であったことがわかる。形式的には師範学校管理下にあったが、学校運営や経営の方針について特に規制を受けることもなく、校内運営や対外活動も、附属中よりは弘前第四中として動いていたのである。なお、第四中学校では仮用附属として開校した昭和二十二年四月二十二日を創立記念日とし、初代校長は須貝清一としている。